赤穂浪士の切腹は世論への忖度だった? 『忠臣蔵』のモデル「赤穂事件」で露呈した将軍・徳川綱吉の“ダブスタ”
忖度と空気で読む日本史
赤穂浪士(あこうろうし)が主君・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の仇である吉良上野介(きらこうずけのすけ)を討ちとった赤穂事件。当初、吉良の罪は不問とされたが、討ち入り後の徳川綱吉の裁定は浅野方に配慮したアンバランスなものとなった。その背景には、赤穂浪士を「義士」ともてはやす世論に対する幕府の忖度があった--。
浅野に手向かわずほめられた吉良
『忠臣蔵』といえば、かつては師走の風物詩として、毎年のようにドラマや映画が放映されていたものである。近年、めっきり目にすることがなくなったのは、時代劇そのものが減ったことに加え、浅野内匠頭や吉良上野介に対する評価が変ったことが要因のようだ。また、法を犯し主君の仇を討つことが美談とされなくなった価値観の変化も大きいといわれる。
事件の発端は、元禄14年(1701)3月14日、播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(ながのり)が江戸城・松の廊下において突如抜刀し、高家肝煎(こうけきもいり)の吉良上野介義央(よしなか)に斬りつけて傷を負わせたことにある。
毎年正月、将軍は名代を京都に派遣して朝廷に年賀の挨拶を行い、その答礼として3月に勅使を迎え江戸城で対面した。このような朝廷関連の儀式を担当するのが高家で、吉良はその肝煎(支配役)を務めていた。そしてこの年、勅使の接待にあたる馳走役を命じられていたのが長矩である。
事件の原因は、吉良に対する長矩の「遺恨」であった。それは、本人が証言しているので間違いないのだろう。遺恨の理由は不明だが、長矩が指南役である吉良への付届けを怠ったため、吉良が親切に指導せず長矩に恥をかかせたとする説が一般的である。
『忠臣蔵』のドラマにおいても、吉良に辱めを受けた長矩が逆上するのがお決まりで、吉良が扇子で長矩の頭をペシペシ叩くシーンもよくみかける。確かに吉良は小憎らしいが、こうした演出を差し引いて考えると、適切な指導を受けられなかったくらいで斬りかかるというのは尋常ではなく、長矩の情緒や性格に問題があったと疑わざるを得ない。
この凶行に激怒したのが時の将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)である。当時、幕府は将軍の権威を高めるために朝廷との関係を重視していたのだから当然である。長矩は即日で切腹を命じられ、赤穂藩は改易となった。
一方、吉良に対しては、手向かわなかったのは神妙であるという将軍のねんごろな言葉が伝えられた。吉良は一方的に斬りつけられただけであり、喧嘩両成敗の原則は適用されない。幕府の処分はしごくまっとうなものといえよう。
法律と世論を天秤にかけた将軍・徳川綱吉の思惑
ところが事件後、吉良の指導に問題があったとする説が世間に広まるにつれ、赤穂藩への処分は一方的であるという空気が醸成されていく。こうした世論の後押しを受けて、吉良への復讐を決行したのが、大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)以下、赤穂の旧臣たちであった。元禄15年(1702)12月14日、47人の赤穂浪士は本所松坂町(墨田区両国)の吉良邸に討ち入り義央を殺害。その首を泉岳寺(港区高輪)の長矩の墓前に捧げて留飲を下げた。
その後、浪士たちは諸大名に預けられたが、今回は幕府も長矩の時のような果断な措置をとらなかった。いや、とれなかったというべきだろう。彼らの仇討ちが世間の喝さいを浴び、浪士たちは「義士」ともてはやされ、助命を求める世論が形成されていたためである。
幕府の評定所では1か月半にわたって喧々諤々の議論が交わされた。その結果、下された裁定は浪士全員の切腹であった。「徒党を組んで吉良邸に押し込み、義央を討ち取った行動は、公儀を恐れぬ不届きな所行である」というのが理由だ。
当然の結果ともいえるが、「打首」でもよいところを名誉の死である「切腹」とした点に、世論に対する幕府の忖度が透けて見える。
当時、幕府は武断政治から文治政治への転換を図っており、徒党を組んでの武力行使は政道に背くものとして断罪されなければならなかった。しかし、彼らの行動は主君への忠義の心から発しているものであり、武士としての大義を貫いたともいえる。それゆえ名誉の切腹を命じ、武士としての対面を保たせたのだ。綱吉にとっては、政治方針と世論を天秤にかけたギリギリの選択だったといえるだろう。
その一方、不可解なのは17歳になる義央の養子・義周(よしちか)に対する処分である。討ち入りの際、義周は手傷を負って満足に戦うことができなかった。その行動が不届きであるとして諏訪家に預けられ、領地を没収されたのだ。義央には手向かわなかったことを褒め、義周には戦わなかったとして罰したのだから、とんだダブスタといわざるをえない。
4年後、義周は配流先の信州諏訪で病没し、足利将軍家につながる名門・吉良家本家は断絶するのである。

大石内蔵助以下17人が切腹した細川家下屋敷跡