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天皇の終身制に影響を与えた「南北朝の分裂」は、後嵯峨上皇の“忖度”が原因!? そこにあった誤算と鎌倉幕府の弱腰とは

忖度と空気で読む日本史

 


14世紀半ば、京都の北朝と吉野の南朝が覇権を争った南北朝時代。きっかけは足利尊氏(あしかがたかうじ)による北朝の擁立にあったが、その遠因は60年以上前の後嵯峨(ごさが)上皇の崩御までさかのぼる。なぜ皇統の分裂という異例の事態が生じたのか。そこには鎌倉幕府に対する後嵯峨の過剰なまでの忖度があった――。


 

◼️現代の皇室典範にも影を落とした南北朝の分裂

 

 南北朝時代は天皇家が二つに分裂するという日本史上でもまれな時代であった。きっかけは建武3年/延元元年(1336)、後醍醐(ごだいご)天皇に反旗を翻した足利尊氏が、挙兵の正当性を担保するため光厳(こうごん)上皇と結んだことにある。やがて京都を制圧した尊氏が光厳の子・光明(こうみょう)天皇を即位させると、後醍醐は吉野に下り自身の正統性を主張し、ここに南北朝時代が幕を開ける。

 

 明徳3年/正中9年(1392)、足利義満(よしみつ)によって南北朝は合一されるが、約60年におよぶ皇統の分裂は後世まで影響を及ぼした。明治22年(1899)に旧皇室典範が制定された際、天皇が崩御した時だけ皇位継承が行われる終身制が定められた。その背景には、南北朝時代に権力を持った臣下(足利尊氏)が天皇を強制的に退位させたことが皇統の分裂を招いたという反省があった。さらに、昭和27年(1947)に定められた現在の皇室典範においても、天皇の自由意思に基づかない退位の強制があることを想定して、引き続き終身制が採用されている。南北朝合一から500年以上を経た現代まで、南北朝の分裂は尾を引いているのだ。

 

 なぜ皇統の分裂は引き起こされたのだろうか。遠因は南北朝の分裂から60年以上前の後嵯峨上皇の崩御にさかのぼる。

 

 後嵯峨は仁治3年(1242)、12歳で早世した四条(しじょう)天皇に代わって即位した。4年後、後深草(ごふかくさ)天皇に譲位して院政を開始。正元元年(1259)には後深草に代えてその弟・亀山天皇を即位させ、引き続き治天の君(天皇家の家長)として朝政を主導した。

 

 ところが後嵯峨は、文永9年(1272)、後継者を明らかにすることなく世を去ってしまう。後嵯峨は亀山を寵愛しており、後深草の皇子をさしおいて亀山の子・世仁(よひと)を皇太子としていた。亀山が後継者であることは衆目の一致するところであったが、それでも後嵯峨が後継者を立てなかったのは、鎌倉幕府への忖度があったためと考えられる。

 

 四条天皇が12歳で亡くなった時、前関白・九条道家(くじょうみちいえ)ら朝廷の有力者は順徳(じゅんとく)天皇の皇子・忠成王(ただなりおう)を支持した。しかし時の執権・北条泰時(ほうじょうやすとき)は、承久の乱で討幕運動に積極的に関わった順徳の血を引く皇子の即位を拒み、順徳の兄ながらも中立を保った土御門(つちみかど)天皇の子の後嵯峨を擁立した。後嵯峨は終生その恩を忘れず、重要事項はすべて幕府の意向を受け入れ、治天の君の決定という天皇家の命運を左右する人事まで幕府にゆだねたのである。

 

◼️皇位継承争いに拍車をかけた幕府の弱腰

 

 にわかに惹起した皇位継承問題に対し、幕府の反応は及び腰であった。当時、京都では北条時宗(ときむね)の兄・時輔(ときすけ)が討たれた二月騒動が起こったばかりで世情は騒然としていた。また、モンゴルとの間で緊張状態が高まっていた時期でもあり、面倒ごとを増やしなくないという事情もあったのだろう。そもそも、後深草・亀山のいずれも後嵯峨の皇子であり、幕府としてはどちらでよかったのである。

 

 そこで幕府が両帝の母・大宮院に後嵯峨の遺志を問うた結果、亀山が治天の君に定められた。このまま後深草が黙っていれば、皇統は亀山の系統に一本化されただろう。だが、世仁が後宇多(ごうだ)天皇として即位すると、後深草は自身の皇子である熙仁(ひろひと)親王(伏見天皇)を即位させるべく、猛烈な運動を開始する。幕府とのパイプ役である関東申次(かんとうもうしつぎ)・西園寺実兼(さいおんじさねかね)を抱き込み、望みが叶わぬなら出家するという悲壮な覚悟まで伝えて、幕府を懐柔しようとしたのだ。

 

 この時、幕府が後嵯峨の遺志を尊重していれば、分裂は避けられたかもしれない。しかし幕府は今回も、朝廷の内紛を避けたい一心から後深草の要求を受け入れ、熙仁を亀山の猶子として後宇多の皇太子に立てるという、ややこしくも安易な調停案を出し両統に認めさせた。

 

 この裁定の最大の失敗は、後深草・亀山のいずれの系統も天皇家の正統であるというお墨付きを与えてしまったことにある。朝廷内部の対立を収めるどころか、後深草の持明院統(じみょういんとう)と亀山の大覚寺統(だいかくじとう)が並び立ち、皇位を争う状況を生んでしまったのである。

 

 その後、幕府は両統が交互に皇位を継承する両統迭立の原則を打ち出したが抗争は収まらず、やがて政権掌握と皇統の一本化をめざす大覚寺統の後醍醐天皇により鎌倉幕府は滅亡。次いで後醍醐を降した足利尊氏が持明院統(北朝)を擁立したことで、南北朝の動乱はドロ沼化していくのである。

 

後嵯峨上皇/ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

 

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京谷一樹きょうたに いつき

日本史とオペラをこよなく愛するフリーライター。古代から近現代までを対象に、雑誌やムック、書籍などに幅広く執筆している。著書に『藤原氏の1300年 超名門一族で読み解く日本史』(朝日新書)、執筆協力に『完全解説 南北朝の動乱』(カンゼン)、『「外圧」の日本史』(朝日新書)などがある。

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