×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
歴史人Kids
動画

馬術・弓術・礼法など武士の伝統を古くから守り続ける【小笠原家】の歴史とは─最強の血筋を持つ礼儀と作法の家─【戦国武将のルーツをたどる】

戦国武将のルーツを辿る【第23回】


日本での「武士の起こり」は、遠く平安時代の「源氏」と「平家」に始まるという。「源平」がこれに当たるが、戦国時代の武将たちもこぞって自らの出自を「源平」に求めた形跡はある。だが、そのほとんどが明確なルーツはないままに「源平」を名乗ろうとした。由緒のあるか確たる氏素性を持った戦国大名は数えるほどしかいない。そうした戦国武将・大名家も、自分の家のルーツを主張した。絵空事も多いが、そうした主張に耳を貸してみたい。今回は鎌倉のころより武士の伝統を守り続ける「小笠原家」の歴史にせまる。


 

富士宮浅間大社の流鏑馬像

 

 源義光以来の甲斐源氏に発祥する小笠原氏は、加賀美遠光(かがみとおみつ)の子・長清(ながきよ)が甲斐国・小笠原の地(現・山梨県南アルプス市)を本拠として「小笠原氏」を称したのに始まる。室町幕府成立以降は信濃守護となり、本拠を信濃に移した。こうした源氏の伝統から、小笠原氏は弓馬の故実(馬術・弓術・礼法)を伝える家として室町幕府でも低調に扱われた。いわば、武士の伝統を守る家、という捉え方をされてきたのである。そうした伝統が現在にもつながり、「小笠原礼法」として伝えられている。

 

 戦国時代には、小笠原氏の嫡流が筑摩郡深志(現・長野県松本市)周辺を本拠にし、庶流が伊那郡・松尾を本拠に互いに覇を競った。甲斐の武田信玄が信濃に進出すると、嫡流・小笠原長時(ながとき)は国外に逃亡するしかなく、越後の上杉謙信を頼った。庶流は降伏して信玄に従ったが、後に徳川家康に従った。

 

 長時は越後から畿内(京都周辺)に移り、小笠原一族である三好長慶の保護を受けた。長時以前から小笠原氏は形式を重んじ、実践にも仕えるように、普段から家臣団に小笠原流(甲斐源氏以来)の諸術を学ばせてきたが、それが「小笠原流宗家」として小笠原家が存在価値を持つようになっていったのである。

 

 こうした存在価値を持つ小笠原氏の嫡流・長時は、各地の戦国大名から手厚くもてなされた。嫡男・貞慶(さだよし)は長時から小笠原氏復興を託され、本能寺の変の混乱に乗じて旧領を奪還し、家康に従うことで大名になり得たのだった。

 

 その家督を譲り渡された嫡男・秀政は家康の孫娘(家康の嫡男・信康の次女)を娶って徳川一門になった。この孫娘は、母親が織田信長の娘であったから、生まれた息子たち(長男は大坂の陣で父・秀政とともに討ち死にしたため。家督は2男・忠真が相続)は、甲斐源氏の血筋を持ちながら、家康・信長の血筋を引くという戦国最強のDNAを併せ持ったことになる。忠真は、後に豊前小倉15万石を得て、その庶流なども含め小笠原氏は、最強の血筋を持ったまま明治維新を迎えることになる。幕末に幕府の外国事務総裁となり、五稜郭では最後まで官軍と戦った小笠原長行(ながみち)は、こうした最強の血を引く最後の武士であった。

 

KEYWORDS:

過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

最新号案内

『歴史人』2026年2月号

豊臣兄弟の真実

秀吉・秀長兄弟による天下統一は、どのようにして成し遂げられたのか? 大河ドラマ「豊臣兄弟!」などの時代考証者らによる座談会や、秀長の生涯を追いながら、その全貌をひも解く。