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明智光秀の家【明智家】は「武家の頂点」清和源氏の流れを汲むという誇りを持つ名家だった? 【戦国武将のルーツをたどる】

戦国武将のルーツを辿る【第18回】


日本での「武士の起こり」は、遠く平安時代の「源氏」と「平家」に始まるという。「源平」がこれに当たるが、戦国時代の武将たちもこぞって自らの出自を「源平」に求めた形跡はある。だが、そのほとんどが明確なルーツはないままに「源平」を名乗ろうとした。由緒のあるか確たる氏素性を持った戦国大名は数えるほどしかいない。そうした戦国武将・大名家も、自分の家のルーツを主張した。絵空事も多いが、そうした主張に耳を貸してみたい。今回は本能寺の変の首謀者として歴史に名を残す明智光秀の産んだ「明智家」の歴史にせまる。


 

明智城にたつ明智光秀像

 

「本能寺の変」の首謀者・明智光秀の、その信長討ちの一因には、自らが清和源氏の流れを汲む家柄にあるという「武士の頂点」という意識があったのではないか、という説もある。というのは、出自もはっきりしない信長が「征夷大将軍」「天下人」になるのは留守ことができない、という光秀の出自から来る不満があったのではないか、という説である。その是非はともかくとして、光秀の血には、色濃く清和源氏を見ることができるのである。

 

 明智氏は、美濃源氏・土岐(とき)氏の一族である。さらにいえば土岐氏とは、清和源氏の嫡流である摂津源氏(多田源氏ともいう)の源頼光を祖としている。頼光の弟には、鵺(ぬえ)退治で知られる源頼政や頼朝の挙兵を促した多田行綱などがいる。頼光自身が、四天王を伴って大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)という鬼を退治したという伝説を持つ。この頼光の流れを汲んでいるのが、明智光秀の祖先である「土岐氏」ということになる。

 

 この頼光も子どもの頼国も、ともに美濃守になってさらに3代後(曾孫)の光信の時に、美濃国土岐郡土岐郷(現、土岐市)に居住して地名から「土岐氏」を名乗った。土岐氏は美濃国主であり続け、後に斎藤道三(さいとうどうさん)によって国を盗まれることになる。

 

 光秀の父は・光隆(光圀・光綱ともいう)は、土岐氏から分かれた明知(明智)氏を名乗った頼重から数えて10代目に当たる。つまり光秀は明智氏の11代目ということになる。光秀は、享禄元年(1528)8月17日(諸説あり)に、父・光隆と母・牧の間に明知城で生まれている。母・牧は、若狭武田家の当主・武田義統(よしむね)の妹であった。ゆえに光秀は、摂津源氏と甲斐源氏という武家の頂点を示す名門に生まれたという意識は強く持って育ったはずである。

 

 しかも源頼光を遡れば、清和天皇の第六皇子・貞純親王の子・常基王(源常基)から出ていることを意識すれば、清和天皇に行き着く血筋である、との思いも強くあった。その名前に「光」を付けたのは、こうした明智家の歴史と血筋を踏まえての上のことであった。

 

 しかし、光秀の祖父・頼典は、明智家の何度かの内訌に遭遇して諸国を放浪した。まだ11歳で父の病死に遭った光秀も、順調に成長したわけではなく、叔父たちに守られて育ち、周辺諸国を巡る旅にも出た。天文11年(1542)、光秀が戻ると美濃では守護・土岐頼芸が斎藤道三によって追放になっていた。光秀は、この斎藤家に仕え、動産にも見込まれたという。

 

 光秀が、鉄砲の上手と言われたのは、道三から新兵器・鉄砲の手ほどきを受けたからという。

 

 その後、道三は息子の義龍に殺され、光秀も京都に逃れた。この後に足利義昭・細川藤孝・織田信長などと出会い、光秀の人生は大きく変化していく。だが生涯、「自分は天皇の血筋を引く摂津源氏の一員である」という光秀の意識は変わらず、その延長上に「本能寺の変」があった。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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