史上初めてとなった豊臣関白家創出の「舞台裏」と近衛信尹の悲哀 秀吉は近衛家の「忖度」によって武家初の関白となった?
忖度と空気で読む日本史
藤原氏以外で初めて関白に就任した羽柴秀吉。任官は偶然の産物であったが、秀吉はその地位を最大限に利用して天下統一を成しとげる。秀吉の関白任官はなぜ実現したのか。その背景には五摂家筆頭・近衛家の秀吉に対する忖度があった。
■豊臣氏による新しい関白家の創出
天下統一を目指す羽柴秀吉が関白に任官したのは、徳川家康・織田信雄と争った小牧・長久手の戦いの翌天正13年(1585)7月のことである。
秀吉が望んだ地位について、従来、次のように説明されることが多かった。秀吉は征夷大将軍になろうとしたが、足利義昭に養子入りを断られ、源氏への改姓がかなわなかったため、将軍職をあきらめて関白になった、というものである。
だが、以上の説には同時代史料による裏づけはなく、江戸時代初頭、将軍の権威を高めようとした幕府のお抱え儒者・林羅山(はやしらざん)の捏造であると考えられている。また、源氏への改姓が将軍就任の絶対条件でないことは、鎌倉幕府における藤原姓の摂家将軍や皇族出身の宮将軍の存在、平氏を称した織田信長に対して朝廷が太政大臣・関白・将軍のいずれかを勧めた「三職推任問題」からも明らかである。
また、長久手の戦いで家康に敗れたのを機に、秀吉が武力による天下統一から、朝廷の官位を利用する路線へ方針転換を図り、その帰結として臣下最高の地位である関白に任官したという見方もある。秀吉が織田氏を越える官位を得ることで下克上を正当化しようとしたのは事実だが、関白任官自体は偶然の要素が強かったといわれる。
きっかけは現関白の二条昭実(にじょうあきざね)と五摂家筆頭の近衛信尹(このえのぶただ)による、関白職をめぐる争いであった。関白職を譲ってほしいという信尹に対し、昭実は「自分は2月に任官したばかりで、当年中に辞官した例はない」とはねつけた。結局、話し合いで決着はつかず、両者が秀吉に調停を求めたところ、秀吉は「どちらが負けても一家の破滅となり、朝廷のためによくない」といい、あろうことか自ら関白になるといい出したのである。
慌てた信尹は「藤原基経(もとつね)公以来、五摂家以外は関白になれない」と主張した。だが、秀吉は五摂家にそれぞれ所領を与え、いずれ関白職を信尹に戻すと約束したうえで、信尹の父・前久(さきひさ)の猶子(ゆうし)となって藤原氏を称し、関白に就任してしまう。
このように、秀吉は始めから関白を望んでいたのではなく、摂関家の内紛を勿怪の幸いとして任官したのである。
前久もよく受け入れたものだと思うが、秀吉に対する忖度が働いたのはいうまでもない。長尾景虎(上杉謙信)とともに関東に下って戦場に身をおくなど、若い頃から苦労を重ねてきた前久は、信尹よりもはるかに現実をわきまえていた。
「今、天下を治めているのは秀吉であり、五摂家を滅ぼしたとしても誰も文句をいえない。その地位は『天下の万機を関(あずかり)白(もう)す(政務の一切を執り行う)』という関白の任務にもふさわしい」というのが前久の認識であった。
以後、秀吉は僥倖で得た関白職を天下統一事業に存分に活用する。秀吉は「天下を切り従えることが関白の職務である」と、根も葉もない主張を展開し、天皇から支配権を譲られたと称して諸大名を屈服させ、天下統一を成しとげるのである。
■信尹との約束を反故にした秀吉
哀れなのは近衛信尹であった。同19年(1591)、秀吉は信尹への約束を反故にして、関白職を甥の秀次に譲り、太閤(たいこう、関白職を子に譲った人の尊称)として君臨する。さらに、秀次が謀反の嫌疑を受けて自害した後も、秀吉は幼い秀頼を将来、関白に任官させるため、空席のままにしたのだ。
やさぐれた信尹は、この頃から奇行に走るようになる。五摂家筆頭の身でありながら武家奉公を望み、朝鮮出兵への従軍を求めて肥前名護屋城に向かったというから尋常ではない。そんなこともあって秀吉や後陽成天皇の怒りをかい、文禄3年(1994)、近衛家の所領のある薩摩に配流されてしまう。信尹は織田信長を烏帽子親として元服し「信」の字も与えられているほどなので、武家へのあこがれがあったのかもしれない。
信尹としては秀吉に忖度したつもりだったのかもしれないが、近衛家の当主が武家奉公を求めるなど、朝廷の秩序を乱す行為にほかならない。そんな奔放な振る舞いを、秀吉は関白家の長として見すごすことはできなかったのであろう。
ただ、近衛家と島津家とは鎌倉時代からの付き合いなので、信尹は島津義久の厚遇を受け、薩摩で何不自由のない暮らしを送ったようだ。そのため関ヶ原の戦いの際、信尹は敗走した島津軍の敗残兵をかくまうという男気を見せている。
信尹が念願の関白に就任したのは、関ヶ原から5年後の慶長10年(1605)であった。背景には、豊臣秀頼に関白職を継がせまいとする徳川家康の意向があったといわれる。最後まで武家の争いに翻弄された生涯だった。

豊臣秀吉/国立国会図書館蔵