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豊臣秀長に高く評価された島津家久の軍事的「手腕」

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第92回

■兄義弘を嫉妬させるほどの島津家久の「手腕」

1584年に家久が龍造寺軍と交戦した、沖田畷(長崎県島原市北門町)の古戦場跡と有明海。この戦いで家久は大軍を相手に見事な勝利を収めた。

 

 島津家久(しまづいえひさ)は、母の身分の低さに引け目を感じていたのを、長兄義久(よしひさ)に励まされたという逸話で知られています。次兄義弘(よしひろ)や三兄歳久(としひさ)に比べると、やや埋もれがちな武将です。

 

 しかし、家久は祖父忠良(ただより)からはその軍事的才能を高く評価されていたと言われ、初陣において敵将を討ち取る武功を挙げています。

 

 その後も島津家による九州統一における戦の数々で活躍し、豊臣秀長からも高く評価され、独立大名として封じられる予定だったとも言われていましたが、急死してしまいます。

 

 これは家久の軍事的な「手腕」を恐れた者による、暗殺だったとも言われています。

 

■「手腕」とは?

 

「手腕」とは辞書などによると「ある物事や仕事を進める上での能力や力量」とされています。似た言葉で「腕前」がありますが、こちらは個人の技術や熟練度を指す場合によく使われます。

 

 現代でもビジネスシーンや政治の世界でよく使われ、特に「経営手腕」「政治的手腕」のように、ある分野における能力を示す際に用いられます。

 

 家久は兄たちに引けをとらないほどの軍事的「手腕」に優れており、それは外交面でも発揮されていました。

 

■島津家の事績

 

 島津家は、鎌倉時代に島津忠久が源頼朝によって薩摩国・大隅国・日向国にまたがる島津荘の下司職に任命されたのが始まりとされています。それ以前の経歴には不明な点が多く諸説あります。

 

 その後、比企能員(ひきよしかず)の変に連座して薩摩国の地頭職以外を失います。5代目貞久(さだひさ)の時には後醍醐(ごだいご)天皇方として鎌倉幕府と戦い、大隅国・日向国を回復しています。

 

 しかし13代忠隆(ただたか)が早世したころには弱体化しており、島津分家や国人層が力を持ち、大隅国では肝付家、日向国では伊東家が勢力を拡大しています。

 

 家久の父貴久(たかひさ)が混乱状態にあった薩摩国を統一し、15代当主に就いています。兄義久が1566年に16代当主を譲られると、義弘や歳久、家久と共に、薩摩国・大隅国・日向国を再び支配下に置くことに成功しています。

 

■沖田畷の戦いでみせた家久の軍事的「手腕」

 

 家久は1578年に起こった耳川(みみかわ)の戦いにおいて、山田有信(やまだありのぶ)たちと高城に籠城し大友軍の足止めを成功させ、その後の大勝利に繋げるなどの活躍をみせています。

 

 1584年に勢力を拡大させた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が有馬晴信(ありまはるのぶ)と対立すると、家久は約3000の援軍を率いる大将として、肥前国島原に入ります。龍造寺軍2万5000に対して長期戦の提案を避け、沖田畷(おきたなわて)で龍造寺家を壊滅させるという積極策を取りました。

 

 これは、湿田が広がる地形を利用して龍造寺軍を誘い込み、伏兵による襲撃で混乱に陥れるという作戦でした。そして龍造寺軍の本隊に突撃をかけ、総大将の龍造寺隆信を見事に討ち取ります。

 

 この決戦に勝利したことで、龍造寺の傘下にいた諸侯は、島津家に従属していきます。その後、龍造寺家を従えると、島津家は大友家の支配地域に攻勢をかけます。

次のページ■家久が外交面でもみせた「手腕」

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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