【Mummy-D×KOHEI JAPAN】徳川家康痛恨の敗北となった「三方ヶ原の戦い」 大出世を遂げた拠点・浜松城を訪ねて
Mummy-D&KOHEI JAPANの遠い目症候群#11
ヒップホップグループ「RHYMESTER(ライムスター)」の兄・Mummy-Dと、「MELLOW YELLOW(メローイエロー)」の弟・KOHEI JAPAN。2人は共に音楽シーンで活躍する一方で、大の歴史好き。今回は「長篠・設楽原の戦い」から少し時を遡り、徳川家康と武田信玄の因縁の戦いである「三方ヶ原の戦い」、そして大河ドラマで「どうする家康」「豊臣兄弟!」で大盛り上がりとなっている浜松の地を訪ねる。
■いざ「三方ヶ原の戦い」の舞台へ
(by Mummy-D)
遠い目、してますか?今回の『遠い目』は、前回、平山優先生とお届けした、長篠・設楽原編の続編。長篠城から南へ、南へ、時代も勝頼の時代から父、信玄の時代へ。とは言ってもたったの2年と半年前の、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に起こった、こちらもかの有名な「三方ヶ原の戦い」にスポットを当ててみる次第。
三方ヶ原の戦いといえば、上洛の途にあった武田軍が居城である浜松城をスルーして西へ向かうのを見た家康が、家臣の反対を押し切って劣勢ながらも追撃し、大敗を喫した、というのが定説。現在では信玄に上洛の意図はなく、浜名湖の水運を押さえ、浜松を孤立、降伏させるのが目的であったという説も。
実際に古戦場碑の立つ地に赴いてみると…むうう、なるほど…そこには石碑はある。だが、石碑しかない(笑)。周りは全て宅地化されており、当時の様子を知るよすがは何も。それもこれも、その後城下が発展したからなんですけどね。ま、古戦場あるあるではあります。
わたくし的には、おそらく後世の創作ではありましょうが、「しかみ像」「馬上脱糞」「空城の計」、地名「小豆餅」「銭取」など、まつわる逸話の豊富さに、浪漫を感じずにはいられません。それほど、エポックメイキングな一戦だったのでしょうねえ…遠い目です。

今はただ石碑が鎮座するのみ。
■惨敗した家康が一矢報いたといわれる「犀ヶ崖」
(by KOHEI JAPAN)
さて、若干の消化不良もありつつ犀が崖(さいががけ)に到着。ここは、三方ヶ原の戦いに敗れて浜松城に逃げ帰っていた徳川勢が、この周辺に野営していたといわれる武田勢を急襲して破ったと伝えられる古戦場。断崖に大きな布を架け、本物の橋と勘違いさせて人馬もろとも谷へ落としたそうな。

草木が鬱蒼と生い茂る場所。ここで武田軍への罠が仕掛けられたという。
当時の犀ヶ崖は、東西約2キロメートル、幅約50メートル、両岸は絶壁で、その深さは約40メートルに及んだらしいが、今もかなりの規模で現存している。遊歩道のように整備され、展望台などもあり、とても見やすい。確かに谷底は深く、不用意にケータイなんて落としたら確実に破壊、そして取りにも降りられなそうだ。
資料館も併設されており、親切なスタッフに誘導されピットイン。広くはないが様々な趣向を凝らしており、とても見やすい。三方ヶ原の戦いのジオラマは圧巻の出来。浜松城に居城していた頃の家康の歴史や伝説を「出世大名家康くん」というゆるキャラが案内してくれるビデオも面白い。帰り際に「出世大名家康くん」のマンホールカードもいただきました。

圧巻のジオラマにも注目。
敷地内に何個か石碑が建てられており、そのひとつに、夏目次郎左衛門吉信の顕彰碑がある。三方ヶ原の戦いで、武田軍から家康を逃すため、自らを家康と称し奮戦、身代わりとなって戦死する…。他にも、武将本多肥後守忠真の顕彰碑など、三方ヶ原の戦いを語る上で欠かせない人物の碑があり、浜松時代の家康の歴史を辿るなら必須の遠い目スポットなのであった。

三方ヶ原の戦いでは、家康に退却を進言した夏目次郎左衛門。その後、家康の身代わりとなって散った。/国立公文書館蔵
さあ残すは浜松城キャッスリング、そのあとは冷たいビールじゃーい!
■家康の“出世城”として知られる浜松城
(by Mummy-D)
キビシイ残暑(※ロケは8月に実施)の中命からがら、浜松城に辿り着いた我々。車移動ながらも三方ヶ原古戦場中心地から犀ヶ崖を経由してここまで、結構な距離があると感じました。
今でこそ立派な石垣と模擬天守のある浜松城ですが、当時のそれは岡崎から移ってきた家康が、現在元城町東照宮のある位置にあった曳馬城を拡張工事し、浜松城と名付けたばかりの頃で、縄張はほぼ同じながらも、土塁に板葺屋根の屋敷があった程度のものだったようです。
家康の江戸入城に伴い浜松に配置された堀尾吉晴によって、天正18年(1590)から石垣、天守を備えた城に整備されましたが、江戸時代の早い時期に天守、櫓などは失われていたようです。そのせいで元々の天守の姿はわからないのですが、堀尾氏がのちに建てた、あの国宝、松江城天守に近いものだったのではないかと予想されています。
それと比べると、んんん、あれー?天守のサイズが天守台と合ってないぞ? わはははは!この疑惑の復興天守は本来の3分の2のサイズしかないそうです。が、しかし! 昭和の浜松城が辿った歴史を知ると、どうにも愛おしく思えてきちゃう。

浜松城の天守。向かって左側に不自然なスペースがある。
戦後復興のシンボルとして、当時の浜松市民は公園や動物園として整備(破壊?)されつつあるお城の本丸に、どうしても天守が欲しかったそうなのです。二度と空襲で焼けない、コンクリート造りで。市民の浄財によってなんとか、それは成し遂げられました。今で言ったらクラウドファンディングか。
しかも、それ以前にはさらに小さなお城の模型も建っていたそうで、歴史学の観点からはインチキの極みなんでしょうけど、そんな経緯も含めてお城を愛でられるようになると、お城めぐりの楽しみ、深みが、もっと増すような気がするんですよね。。。
今や本丸内にスタバありますからね(笑)。でも僕たち的にはやっぱ夏目次郎左衛門や本多肥後守の弔いもしなきゃなんないからさあ、やっぱコーヒーってわけにはいかないんだよね。困ったなあ、駅までのルートに繁華街があるやあ。すいませーん、生二つ!

家康が歩んだ天下取りへの険しい道と、地元の人々の敬愛の情を思って遠い目。
- 1
- 2