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室町時代に名門守護大名家として栄華を誇った「斯波家」はどのような歴史をたどったのか?─斯波氏の興亡─日本最強の鬼・酒呑童子を退治した猛者を祖先にもち、室町のころには全国に広がった名高い名族である「土岐家」とはどんな家系⁉【戦国武将のルーツをたどる】

戦国武将のルーツを辿る【第29回】


日本での「武士の起こり」は、遠く平安時代の「源氏」と「平家」に始まるという。「源平」がこれに当たるが、戦国時代の武将たちもこぞって自らの出自を「源平」に求めた形跡はある。だが、そのほとんどが明確なルーツはないままに「源平」を名乗ろうとした。由緒のあるか確たる氏素性を持った戦国大名は数えるほどしかいない。そうした戦国武将・大名家も、自分の家のルーツを主張した。絵空事も多いが、そうした主張に耳を貸してみたい。今回は室町時代に名門守護大名家として栄華を誇った「斯波家」の歴史にせまる。


 

室町幕府で管領として幕府の実権を掌握するなど、斯波氏の地位を高めた室町時代の当主・斯波高経。(国立国会図書館蔵)

 

 斯波(しば)氏は、尾張の織田家や越前の朝倉家など戦国の群雄にとって主家に当たる名門であった。斯波宗家は、尾張守護として織田家や朝倉家を臣従させていたのである。

 

 斯波氏は鎌倉時代中期、足利氏が陸奥国・斯波郡を領したことから、その地名を名乗った。四方に派生した足利家でも、この斯波氏は有力な一門家であった。室町時代になると、斯波氏は自称ながら「管領」を務めるようになる。

 

 室町幕府が開かれると、斯波高経(たかつね)は足利尊氏に従った功などによって越前守護などに任じられた。尊氏の没後に2代将軍として足利義詮が就任すると、足利一族を代表する形で高経は嫡男・義将(よしまさ)を幕府執事に据えた。そして自らは2人を後見すして「管領」を称したのだった。このようにして、義将は3代将軍・義満、4代将軍・義持の時代にも「管領」として将軍家を補佐した。義将の「管領」職は、通算3度にも及んだのだった。

 

 その地位を確固たるものにするため康暦元年(1379)には、有力者であった細川頼之を放逐するなどして独裁体制を敷いた。その息子・義教(よしのり)は中国地方の太守・大内氏の反乱「応永の乱」(1399)で軍港を挙げた。その功績によって、越前・尾張・遠江の3国の守護となった。ここに斯波氏の基盤が築かれ、斯波家はこの3国を世襲することになる。

 

 時間を経るに従って斯波氏の領国支配は、実際には、織田氏などの守護代に任される形になっていった。斯波氏の当主自らは京都にいて幕政に関与したためであった。これが斯波家にとって大きな禍根となっていく。

 

 代を重ねると、斯波家でも後継者を巡ってお家騒動「内訌」が起きた。親族の家から迎えた養子・義廉と一族の義敏の争いであった。やがて、この内訌には山名宗全・細川勝元・伊勢貞親が介入してきた。これが、応仁元年(1467)に起きた「応仁・文明の乱」の一因ともなったのである。西軍の宗全は、義廉を「管領」として戦い、戦乱は10年にも及んだ。

 

 この間に斯波氏は疲弊し、越前国などの領国では守護代(朝倉氏・織田氏)が台頭した。越前では、守護代・朝倉氏が細川氏の東軍に属して戦い、やがて斯波氏から領国権を奪う結果となった。さらに16世紀に入ると、遠江も今川氏に奪われた。

 

 尾張では尾張下四郡の守護代・織田氏の庇護下で、斯波家はようやく命を繋ぐようになってしまっていた。時代が変わっていく。織田信長の台頭著しい戦国終盤、斯波義銀(よしかね)は、足利一族の血脈を持つ三河・吉良氏などと手を結んで、信長に対抗姿勢を見せた。

 

 そして永禄4年(1561)、義銀は居城・清洲城を逐われ、ここに滅亡した。名門・名族のなれの果てを、斯波家に見ることが出来る戦国時代である。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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