弥生時代と古墳時代の境界線はどこか? 弥生墳丘墓と古墳墓の画期から読み解く古代史の魅力
「空白の4世紀」と弥生王国の謎
弥生時代の墓はまあまあ平等に埋葬する時代を経て、徐々にひと際大きな墳丘墓が出現します。
次の古墳時代にはさらに巨大な前方後円墳が現れます。その変遷から当時の社会を想像してみましょう。
■弥生時代から古墳時代への文化や風俗の移り変わり
弥生時代の集落遺跡は居住地と生産地、そして埋葬地の三つがワンセットだと考えられます。生活に必要な三種類の区域が一つの集落として営まれていました。日本列島は北東から南西に長く広がる島国ですので、気候も違えば大陸や半島との交流もまちまちですから集落の文化や風俗にも個性があったことでしょう。
弥生時代の政治・社会にあった大変化を示すのが、2世紀初め頃かと思われる銅鐸39個を丁寧に埋納した島根県の加茂岩倉遺跡と、そのすぐそばで同時期に358本の銅剣などをきれいに埋納した荒神谷遺跡です。

島根県立出雲考古博物館展示の加茂岩倉銅鐸 と荒神谷銅剣。1世紀~2世紀に埋納されたと考えられているので、社会構造の変化を示すと考えられる。
撮影:柏木宏之
一般に銅鐸や銅剣を用いる祭祀は神を祀るもので、まだそれほどはっきりした身分階級社会ではなかっただろうと考えられています。その銅鐸・銅剣祭祀の終焉を加茂岩倉と荒神谷の両遺跡が証言していると考えられるのです。
ではその後の弥生社会はどうなったのでしょうか? はっきりとした階級差を示す墳墓が築造され始めるのです。出雲地域の弥生墳丘墓文化は長方形なのが特徴です。この長方形の四隅になだらかな足のような盛り土が施された大型墳丘墓を四隅突出型といいます。非常に特徴的な四隅デザインの墳丘墓は、日本海沿いに富山県など北陸地方にも広がります。また、方形周溝墓と呼ばれる長方形の小型墳墓は近畿地方などにも多くみられます。

出雲弥生の森博物館展示の四隅突出型墳丘墓ジオラマ。一段墳丘で、のり面には貼り石が施されている。
撮影:柏木宏之
これらの考古史料を材料に推理すると、弥生時代の後期には王制の原型ができて、祖先崇拝が始まったと考えられますし、その王制は血統主義だったことが推測されます。つまり王家の出現です。
3世紀の倭国をリポートする中国史書の『魏志倭人伝』にも「下戸と大人・身分の尊卑」という身分制度が記載されていますので、その始まりは弥生王墓築造の頃からだと考えられます。
それでは弥生時代の墳丘墓と古墳時代の古墳墓を比較してみましょう。まず弥生墳丘墓末期とされる西谷(にしだに)墳丘墓群の四隅突出型の2号墓と、古墳時代の画期とされる奈良県桜井市の箸墓古墳を比較してみましょう。まず、大型の長方形墳で四隅四方に足が広がる形と、280m級の超大型前方後円墳という形に大きな違いがあります。
また、周濠の有るか無しかも大きな違いです。四隅突出型2号墳には周濠は見られません。副葬品も比較したいのですが、残念なことに箸墓は宮内庁の陵墓参考地として指定されていますので調査ができません。それではというので外形をもう少し細かく見ますと、四隅突出型は1段造りで、箸墓はなぜか後円部が5段造りという、築造技術に大きな違いがあります。
逆に両者に共通なのは全体を川原石で葺いてあるという事と、これまでの数少ない調査で箸墓からも吉備発祥の特殊器台が発見されていることでしょうか。西谷墳丘墓群からも特殊器台が出土しています。つまり両者は吉備と強くつながっていたという事になり、これも共通項です。この共通項だけを見ると、弥生墓と古墳墓の画期が不明瞭ではないかという気になります。
弥生時代と古墳時代の画期は今のところ、前方後円墳型が出現したかどうかという事が重要な判断材料になりますが、実は副葬品の種類も画期を判定する重要なファクターとなり得ます。
大阪府高槻市の安満宮山(あまみややま)古墳は3世紀半ばの丘陵を利用した墳墓です。その墳形は長方形墳で、竪穴割竹型木棺墓です。墳形を見たところ明らかに弥生墓なのですが、副葬品を調査すると古墳時代に突入しているといえる墓だったのです。

大阪府高槻市・安満宮山古墳。出雲型弥生形式の長方形墳だが副葬品は古墳時代。
撮影:柏木宏之
内部からは最古の紀年鏡である「青龍三年鏡」を含む五枚の舶載銅鏡が出土していて、三角縁鏡も含まれていました。さらに古墳時代から使用が始まるとされる鉄斧(てつふ=鉄製の斧)が出土していますので、この安満宮山古墳の被葬者は、古墳時代最初期に埋葬されたと考えられます。つまり安満宮山の墳墓は、外見は弥生時代、副葬品は古墳時代という移行期の古墳だと考えられるのです。
弥生墓の特徴的な副葬品に銅剣がありますが、古墳時代になると銅剣は姿を消して鉄剣になり、銅鏡が主流になります。
大雑把な区分けで申し訳ありませんが、大筋で画期はこのようにまずは判断されるようです。墳形と副葬品に加えて、尾根の地山を利用しているのか、平地に盛り土で築造されているのか?当然、土器や円筒埴輪があればその編年や炭素14年代法などから埋葬の時代を割り出すこともできます。
纏向遺跡を代表する箸墓の築造年代が今のところ西暦250年頃まで遡っていますので、今のところ近畿地方では3世紀半ば以降が古墳時代だとされていますが、今後も画期は絶体年代測定法などの進化や新発見によって移り変わるでしょう。
このように墳丘の変化や副葬品の変化、出土土器の編年などで時代の画期を決定しているわけですが、南北に細長い日本列島全体の画期はグラデーション的に考えなければならないでしょう。わかりやすくいえば、移動する桜前線のような感覚です。そしてその考古学調査結果から当時の政治史や政体、文化や精神世界の変化を推測しなければならないのです。古代研究には理工系の科学技術や知見も必要ですし、同時代の世界史知識も重要です。そして豊かで幅の広い推理力も必要なのです。
だから古代史は面白いのです!