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邪馬台国の女王「卑弥呼」はヤマト政権の天皇(大王)だったのか⁉ ヤマト政権との関係はどのようなものだったのか⁉

新・古代史!卑弥呼と邪馬台国 #02

 

■卑弥呼は女帝なのか?それとも宗教王だったのか?

 

卑弥呼像

 

 邪馬台国が畿内にあったとすると、卑弥呼とヤマト政権と関係がどのようなものだったのかが問題になってこよう。言葉を変えれば、卑弥呼がヤマト政権の大王(天皇)であった可能性はあるのかということである。

 

『魏志』倭人伝には、卑弥呼のことを「倭の女王」と記述している。しかし、「記・紀」をみると、女性初の大王(天皇)は推古とされ、それまでの大王はいずれも男性とされている。

 

 この点をふまえて、『魏志』倭人伝にみられる卑弥呼の記述を検討していくと、まず、王となってからは、人前に出ることはあまりなく、1000人もの婢(はしため)にかしずかれて生活していたとある。年齢は「長大」で「夫婿」はいなかった。すなわち、かなりの年配で夫はいなかったと記されている。もっとも、「長大」には成人という意味もある。

 

 卑弥呼の館は、宮室のほか物見用の高殿や城柵が設けられていて、武器を持った兵によって厳重に守衛されているという。ただ、「男弟」がいて政治を補佐しているとも記されている。

 

 こうした『魏志』倭人伝の記述を読むと、卑弥呼は率先して人びとの先頭に立ち、政治をとっている存在とはいい難い。むしろ、ガードの堅い宮殿の中に居住して、「鬼道」とよばれる呪術を駆使して人びとからあがめられるシャーマン的存在であったように思われる。卑弥呼の教えは、「男弟」に伝達されてそれによって政治がおこなわれていたと思われる。つまり、卑弥呼は宗教王であり、「男弟」は政治王であるという役割分担がなされていたと考えられる。

 

 すなわち、「ヒコ・ヒメ制」をとっていたといえるであろう。男王が政治(俗権)を司り女性血縁者が祭祀(聖権)を司る「ヒコ・ヒメ制」は、ヤマト政権の初期の大王である崇神と倭迹迹日百襲姫命の関係をはじめとして古代に広くみられる政治体制であり、卑弥呼と「男弟」の関係もその一例とみなすことができるだろう。

 

監修・文/瀧音能之

歴史人2025年10月号『新・古代史!卑弥呼と邪馬台国スペシャル』より

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