広敷向から出入りし大奥に詰めた「御庭番」の実態
「歴史人」こぼれ話・第16回
下級武士ながら将軍に目通りする機会を得ていた御庭番(おにわばん)
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御庭番の制度を作った徳川吉宗 都立中央図書館特別文庫室蔵
大奥とは女性ばかりの園と思われがちだが、意外なことに、その実務全般をつかさどる男性職員も数多く詰めていたのをご存知だろうか?
大奥の通用口から入って、すぐのところにある広敷向がその詰所。隣接する御殿向(将軍の寝所など)との間の御錠口の出入りを管理することはもとより、出入りの商人(御用達)とのやり取りや警備なども、重要な役割として行っていたようである。
ここで働く職員は広敷(ひろしき)役人と呼ばれるが、彼らの中には、普段の仕事以外に、特殊な任務を負う者がいた。それが御庭番(おにわばん)という名の職員であった。
その任務とは、将軍の命を受けて、隠密裏(おんみつり)に諜報(ちょうほう)活動を行うこと。将軍直属の監察官で、ひとたび命を受けるや、町人に変装して諸国を巡って情報収拾にあたるというものであった。まさに隠密、つまりスパイ行為が彼らの任務である。言い方は悪いが、「将軍の犬」として、危険な職務に奮闘したのである。
ただし、下級武士ながらも、将軍に目通りする機会もあったため、出世の道が開けた。旗本になるケースも少なくなかったから、命じられるまま、少々の危険など顧みなかったに違いない。旗本という大きな餌をぶら下げられれば、尻尾を降りたくなるのも人情というものだろう。
代々御庭番の家系に生まれた村垣範正(むらがきのりまさ)などは、松前奉行を経て勘定奉行にまで昇進。遣米使節団の副使まで拝命するほどの出世ぶりであった。
8代・吉宗が紀州流忍者(根来衆)を引き連れて御庭番の制度を作る
この御庭番は、もともと8代将軍・徳川吉宗が、紀州藩主時代に薬込役(くすりごめやく)と呼ばれていた隠密17名を幕府制度に導入したのがはじまり。紀州流忍者(根来衆/ねごろしゅう)を引き連れて御庭番の制度を作り、諸大名の動向を探ろうとしたのである。
吉宗の頃には、伊賀や甲賀の忍者衆たちの需要も減って、すでに忍者集団としての機能は果たしていなかった。そのため、鉄砲で武装した傭兵集団として知られた根来衆を母体とする御庭番が、その代役を務めたというわけである。