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女たちの争いの結果、4歳で位に就いた「名ばかり将軍」 ~ 7代将軍・徳川家継 ~

徳川15代将軍列伝 〜 江戸幕府を開いた家康から、最後の将軍・慶喜まで〜 第8回 

急逝は「大五郎の祟り」!? 史上最年少で任官・死去した征夷大将軍

歴史代最少年の将軍となった家継。幼年ゆえ政治的指導力はなく、間部詮房、新井白石らの側近が、実質的な幕政を担った。イラスト/さとうただし

 

 6代将軍・家宣(いえのぶ)の正室は関白近衛から嫁いだ熈子(ひろこ)であり、家宣との間には男女各一人の子をもうけたが、いずれも早世している。家宣の側室は4人。中でも、内大臣・櫛笥(くしげ)氏の養女として大奥に上がったお須免(すめ)の方は一時、家宣の寵愛を一身に集め、家宣の3男・大五郎を生んでいる。しかし、もう一人の側室・お喜世(きよ)の方に家宣の寵愛は移る。お喜世は家宣の4男・鍋松を生む。全く幼い宝永5年(1708)12月生まれの大五郎、宝永6年7月生の鍋松が次期将軍候補となるが、お須免(大五郎)とお喜世(鍋松)の両派に分かれての争いが持ち上がる。大五郎には正室・熈子と柳沢吉保が肩入れし、鍋松には家宣の寵臣・間部詮房(まなべ・あきふさ)が後ろ盾になった。

 

 結果として、この熾烈な争いは、宝永7年8月に大五郎が3歳で急死したことで幕が下がる。鍋松の将軍世嗣が決定的になったのである。正徳2年(1712)10月に家宣が病死すると、鍋松は僅か4歳で将軍位に就く。

大五郎急死はお喜世側の謀略という噂が流れた。3年後に、鍋松(将軍・家継/いえつぐ)が急逝すると「大五郎の祟(たた)り」という風説が流された。

 

 いずれにしても、家継の将軍は名ばかりのことで、政治上の諸問題は側用人であった詮房が専行した。事実上の間部専制である。

 

 将軍の母親であるお喜世の方は髪を下ろして「月光院(げっこういん)」となる。まだ若い月光院とのスキャンダルが詮房との間に起きる。二人の間柄は誰も知らない者はない、とまでいわれた。

 

 詮房は、能楽師出身であり容姿の美しさと利発さを買われて家宣の寵愛を一手に集めた。家宣死後は、男子禁制の大奥にも詮房は出入自由となって月光院のもとに通ったという。

 

 これに対抗する形で、家宣の正室・熈子(天英院/てんえいいん)は、譜代門閥勢力を背景に、月光院・間部と対立を深める。この対立が背景にあって「絵島事件」が起きた。正徳4年(1714)正月、家宣と綱吉の法要のために、月光院の代参として増上寺に参内した月光院の手下ともいえる大奥女中・絵島(えじま)が芝居見物をして江戸城に戻るのが遅くなり、そこから歌舞伎役者・生島新五郎(いくしま・しんごろう)との間の交情が明らかにされ、絵島・生島ともに流罪という刑罰を受けたのである。二人は、大奥の勢力争いの犠牲にされたとの説もある。

 

 さらに、家継の後の将軍という問題もあった。月光院側が有効な継嗣を決めかねる間に、天英院側は家宣の弟に当たる館林藩主・松平清武を推挙したが、月光院が「一度臣下に降下した者を将軍にはできない」として拒否した。続いて天英院は、家宣の遺言に従って御三家のうち尾張・徳川継友(つぐとも)の擁立を図った。これに対抗するように、月光院は紀伊・徳川吉宗を擁立しようとした。

 

 結局、家継の政治は内容がないまま、女たちの争いに終始し、その没後、8代将軍として吉宗が就任するのである。間部詮房は、越後・村上5万石の大名として生き残った。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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