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幕府の基礎を築いた生まれながらの将軍 ~ 3代将軍・徳川家光 ~

徳川15代将軍列伝 〜 江戸幕府を開いた家康から、最後の将軍・慶喜まで〜 第4回 

乳母(養育係)はのちの春日局 鎖国政策を完成させる

「武家諸法度」、「参勤交代」など、幕府の基本的な統治基盤は、家光の代に成立したものが多い。イラスト/さとうただし

 2代将軍秀忠と正室・お江(ごう)は、5歳年長の姉さん女房であった。2人の間には三男五女が生まれている。このうち長男・長丸は早世(そうせい)し、長女が豊臣秀頼に嫁いだ千姫(せんひめ)、五女が後水尾(ごみずのお)天皇の中宮となる和子。男児は竹千代(家光)と国千代(忠長)となった。

 

 家光が生まれた慶長9年(1604)は、家康が征夷大将軍に任じられて1年目のことであった。伏見城にいた家康は、秀忠に男児誕生(長男・長丸が既に死亡していたため)を知って大喜びし、生まれたばかりの赤ん坊に自分の幼名である「竹千代」を名乗らせるように命じた。この瞬間に、家光の3代将軍継承は決定したといえる。家光が「生まれながらの将軍」とされるのは、こうした背景があった。家光の乳母(養育係)として求められた人材に、明智光秀の家老であり、本能寺の変で主導的な役割を果たした斎藤内蔵助利三(山崎合戦後に刑死)の娘・お福が選ばれた。後に大奥を支配する春日局(かすがのつぼね)である。

 

 2年後に生まれた弟・忠長は逆に母親のお江に育てられたことなどから、後に拡大する忠長との確執は、幼児の頃に生まれていたのだった。忠長を世継ぎに、と考える実母・お江と、家光こそ、とするお福との確執もあって、この裁定は駿府にいた家康が江戸城に出ばって下した。長子相続の決定であった。

 

 元和9年(1623)7月、秀忠は将軍位を20歳の家光に譲り、自分は大御所として君臨した。秀忠が没した後の寛永9年(1632)10月、忠長との確執が形になった。家光は忠長の領地・駿府など55万石を没収して身柄を上野・高崎城主(安藤氏)に預け、翌年12月には自刃(じじん)を命じた。

 

 家光が将軍になった時に外様大名を伏見城に集めて「祖父家康は諸侯の力を得て天下を統一した。父秀忠は諸侯の同僚という立場にあった。だが私は生まれながらの将軍である。今後、私は諸侯を譜代大名同様に臣下として扱うからそのように心得よ」と啖呵を切った。

 

 家光政権は、老職(後の老中)の酒井忠勝・稲葉正勝(まさかつ)・内藤忠重に、秀忠時代からの老職であった酒井忠世・土井利勝を加えて再編成されて臨んだ。家光の小姓から出世したのが、堀田正盛(まさもり)・松平信綱・阿部忠秋(ただあき)・三浦正次(まさつぐ)・太田資宗(すけむね)・阿部重次(しげつぐ)であり、彼らは後の若年寄ということになる。武断政治を目指す家光時代の大名統制は厳しく、改易された外様大名は29人、譜代・親藩20人、領土の石高は400万石にも及んだ。

 

 また家光は、鎖国政策を完成させた将軍としても歴史に残る。その2年後の寛永14年(1637)10月、最後の合戦といわれる「島原の乱」が起きた。天草四郎を大将とするキリシタンや牢人4万人の一揆であった。

 

 なお、家光には7歳違いの異腹の弟がいた。信州高遠(たかとう)藩主・保科正光の養子となっていた正之である。後に正之は、会津に封じられて御三家に次ぐ家格を与えられた。家光は慶安4年(1561)4月、48歳で病死するが、後継の家綱の後見を正之に託した。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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