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秀吉に寝返った家康側近・石川数正

徳川家康・その一族と家臣団 第11回

松本城を拡張、築城の名人としても知られる

初期の徳川軍団を支えた最重要人物であった数正。その出奔は、徳川軍団に大ダメージをあたえた。「長篠合戦図屏風」(部分)/犬山城白帝文庫蔵

 石川数正(いしかわかずまさ)の石川家は、三河・安祥譜代(あんじょうふだい)といわれる松平諸家の中でも、第一とされるほどの名家である。先祖を辿ると、河内国石川郡出身で源義家の一族だとされる。その後、三河に移り住み、松平忠親(ただちか・家康の5代前の先祖)に数正の5代前の先祖が仕えた。

 

 桶狭間合戦後の永禄4年(1561)に、信長が家康との和平を申し入れた時に、信長側は滝川一益(いちます)を使者に立て、これに応じた窓口が数正であった。さらに今川氏真(うじざね)と交渉して、人質となっていた4歳の竹千代(後の信康)と虜(とりこ)にした今川方の武将・鵜殿長照(うどのながてる)とを交換して無事に岡崎城に戻ったのも数正だった。三河・一向一揆の時には家康に味方して一揆と戦い、永禄12年(1569)には、西三河のトップになった数正は、東三河のトップ・酒井忠次と並んで徳川家の双璧の一方を担う存在になった。

 

 数正は戦場では、先陣として抜群の働きぶりを示した。突撃ばかりか撤退の際も見事な駆け引きを見せて殿軍を務めた。合戦の度ごとに武勲を挙げた数正は、いつも家康の側近として仕えるようになっていた。勿論、本能寺の変後の「伊賀越え」でも家康の傍にいて警固の役割を果たした。

 

 秀吉との関わりは、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時である。小牧山に立てた数正の馬簾(まとい)の馬印を見た秀吉が「敵の馬印ながら壮観である。ぜひ譲って欲しい」と言ってきた。数正は秀吉の要望に応えて馬印を譲った。その返礼に、秀吉から多額の黄金が来た。数正は家康に相談した結果、それを受け取った。しかし敵将から黄金を貰ったとは聞こえが悪い、として後に返したが、これが家康との心の隔たりに繋がっていく。秀吉との和議の使者が数正であったことが、なおさらに秀吉と数正を近付けさせてしまった。

 

 天下人に限りなく近づいていた秀吉から「上洛要請」があった時に、重臣会議で数正は「秀吉公は天下人に近い。徳川家のためにも早く秀吉公の望みに応えた方が得策です」と説得した。しかし結局、家康は上洛しない。数正が城代を務めている岡崎城から妻子・一族・家臣団100余名を連れて三河を出奔(しゅっぽん)して秀吉に走ったのは、重臣会議から半月後の天正13年11月13日夜半のことであった。徳川家も岡崎城も大混乱となった。

 

 秀吉の家臣になった数正は、小田原の陣後に信濃・松本城主8万石になる。松本城を拡張し、頑固な城に改築したのも築城の名人としても知られる数正の仕事であった。築城の完成は嫡男・康長の時代になる。数正は、文禄2年(1593)56歳で病没した。後に康長は大久保長安事件に連座して失脚。石川家も取り潰される。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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