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徳川四天王 三河武士の象徴である彦左衛門の兄・大久保忠世

徳川家康・その一族と家臣団 第8回

豊臣秀吉にも買われた情深い戦国武将

 

弟は「三河物語」の作者である大久保彦左衛門(忠教)。「三河物語」には、兄・忠世のエピソードが豊富に綴られている。イラスト/さとうただし

 大久保忠世 (おおくぼただよ)について『大久保家記別集』という資料は「武功武辺無双ノ人ニテ大神君(家康)ノ御旨ニ叶ヒ、別シテ鉄砲ヲヨクシテ(中略)忠世ガ大力ハ本多平八郎忠勝ニモ劣ル事ナシ」と書き記す。いわば典型的な戦国武将であった、という評価であろう。

 

 忠世は天文元年(1532)、三河国上和田村で生まれた。幼名を新十郎、後に七郎右衛門を名乗った。初陣は15歳。その後も度々戦場に立ち、永禄6年(1563)の三河・一向一揆には、大久保党を率いて上和田砦(うえわだとりで)に籠もり家康のために戦った。その4年後には、本多忠勝・榊原康政らとともに御旗本先手侍大将に任じられた。

 

 永禄12年1月の、今川氏真(うじまさ)が立て籠もる遠州・掛川城攻撃には先鋒をつとめた。元亀3年(1572)12月の三方ヶ原合戦では、徳川・織田連合軍は惨敗したものの、忠世は殿軍として味方の危機を救い、さらには武田軍の陣営に夜襲を掛けて驚かせるという離れ業も行っている。

 

 武辺一辺倒という意味では、忠世は他の家康側近たちに引けを取らなかったが、一方で情けに深い一面も併せ持っていた。一向一揆で徳川家を飛び出した本多正信の留守にはその妻子の面倒を見続け、正信の再仕官には家康に取り次ぐなどした。帰り新参となった正信がまだ低い身分のままであり、十分な着物も持っていなかったことから、妻に言い付けて「正信のために着物を1枚しつらえてやってくれ」と言い、手織りの紬を与えた。

 

 天正18年(1590)、天下人となった秀吉は、21万の軍勢で北条氏の小田原城攻囲戦を開始した。徳川軍3万のうち、一の先備え7手として忠世も配置された。この時、忠世の陣屋は足柄下郡網一色村にあった。秀吉は石垣山の本陣から忠世の陣屋にやってきて忠世を褒め、取り寄せた弁当を家康らとともに食べた。その時に秀吉は家康に向かって「七郎右衛門(忠世)に4万石与えてやるように」と命じ、さらに帰り際には忠世に「そうだ。今言った4万石にさらに5千石加増してやろう」と言い添えた。これによって、戦後に忠世は遠州・二俣城から4万5千石で小田原城主に転封する。

 

 帰り際の秀吉は忠世に「儂(わし)はおまえを買っている。もしも豊臣と徳川の間に戦が起きたとしたら、おまえは豊臣の武将として戦うか、徳川として戦うか」と戯れに尋ねた。忠世は真面目な顔をして「殿下(秀吉)の恩賞は深く感じていますが、累代の徳川家臣である私は義を守ります。その際には必ず殿下の命は私の掌中に握られることになりましょう」と答えた。それまで和やかに談笑していた家康と秀吉が、白けた表情になった。忠世は、三河武士としての意気地を示したのであった。忠世は文禄3年(1594)9月、小田原城内で病死した。63年の生涯であった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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