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徳川四天王 家康に過ぎたる「平八」 無傷の勇将・本多忠勝(ほんだただかつ)

徳川家康・その一族と家臣団 第4回

信長、秀吉から「花実兼備の武将」「日本第一、古今独歩の勇士」と讃えられる

徳川家重臣で同じ本多一族でありながら、本多正信とは不仲で、「あんな鷹匠あがりの腰抜けは武人ではない」と常に罵倒していたと伝わる。生粋の武闘派だが、政治的手腕に欠け、幕府の中で徐々に影響力を失っていった。イラスト/さとうただし

 本多平八郎忠勝は、13歳の初陣から63歳の生涯までの50年間、家康の合戦に参戦すること57回という。戦場を駆け巡った忠勝が使った鑓(やり)は「蜻蛉切(とんぼきり)」という名前で知られる。黒塗りの柄1丈3尺(3メートル30センチ)・穂先部分が長さ1尺4寸3分(35センチ)という名鑓で、忠勝はこの長く重い鑓を軽々と振り回して戦い、戦場ではかすり傷ひとつ受けたことがない、という無傷の勇将であった。

 

 「蜻蛉切」というのは、1度鑓を振るえば乱舞する蜻蛉を必ず切り落とすほどの腕前、ということで名付けられたとか、たるの穂先に止まった蜻蛉が、すっと切れて落ちたことから名付けられた、とかいわれる。

 

 ほかにも忠勝の力を示す逸話は多い。一日に数十里(100キロ以上)を走る名馬・鬼鹿毛(おにかげ)が勢い込んで走り出そうとするところを忠勝は片手で鼻面を握って押し止めるほどの怪力であった、という話もある。

 

 忠勝の勇将ぶりを褒める武将の言葉も残る。信長は「花実兼備(花も実もある)の武将」と言い、秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」と讃えたし、信玄率いる武田軍とは何度も戦ったが、常に黒糸縅(くろいとおどし)の鎧に鹿角の兜という姿に槍を引っ提げて真っ向から戦う忠勝を武田の将兵は「家康に過ぎたるものが2つあり。唐の頭に本多平八」と褒めそやした。唐の頭とは、家康が被っていた、頂上に舶来の動物の毛を付けた兜を指す。つまり、忠勝は家康の家臣にしておくには惜しい人材、ほどの意味であろう。

 

 忠勝は天文17年(1548)に三河国・西蔵前(みかわのくに・にしくらまえ)城主(岡崎市)の本多忠高(ただたか)の嫡男(ちゃくなん)として生まれた。だが、父も祖父・忠豊(ただとよ)も若くして討ち死にし、残された幼児の忠勝は苦労して生き抜いた。13歳の初陣というのも、その証であろうし、幼児から家康(当時は松平元康)に仕えて勇将に成長していった。

 

 徳川家臣団・徳川四天王の中でも、忠勝ほどの武辺一辺倒で武勇に生きた剛の者はいない。戦国時代を代表する武将といっても過言ではない。逆の言い方をすれば、忠勝は政治向き(官僚)ではなく、戦場だけが生き甲斐ともいえるような生き方をした。忠勝は、家康のあらゆる合戦に出陣し、多くの手柄を立てている。家康の負け戦である信玄との三方ヶ原合戦でも、忠勝は武田軍に引けを取らない見事な戦さ巧者ぶりを示しているし、長篠合戦、小牧・長久手の戦い、小田原の陣、関ヶ原合戦など忠勝の武勇を示す合戦は数多い。

 

 小田原の陣の後に忠勝は上総(かずさ)国大多喜(おおたき)城(千葉県)10万石の大名になった。

 

 忠勝は、慶長15年(1610)10月、63歳で死去。なお真田昌幸(まさゆき)の長男・信之(のぶゆき・信州松代城主)の正室は、忠勝の長女である。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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