密かに“信玄流”を手本とした徳川家康
孫子の旗 信玄を師匠とした武将列伝 第9回
甲州流・信玄流を“家康流”として取り入れ天下統一を果たす

戦国を生き抜き、最終的に天下人となった家康だが、軍事、外交、家臣の統制術などの多くを武田信玄から学んだ。武田家滅亡後、生き残った家臣の多くを徳川軍団に組み込み、戦闘力の向上にも努めた。写真/アフロ
信玄の薫陶を受けた若者たちは数多い。奥近習(おくきんじゅう)・親族衆・牢人衆などなど、様々な人々が信玄を「師」として教育され、一流の武将に育った。こうした甲州軍団の埒外(らちがい)にあって、その甲州流・信玄流といわれるすべて(軍制・兵法・経済制度など)を学んだのが、徳川家康であった。
もちろん、家康が信玄の息のかかる場所にいたことはないが、敵対している時も、一時の同盟時にも、じっと信玄のやり方を見て全てを身に付けようとし、自らの個性を信玄に合わせて「家康」流儀にしていったのである。
同時代の武将の中で、家康くらい信玄の強さ・凄さ・恐ろしさを理解していた者は、たぶん他にはいないと思われる。その意味からも家康は信玄を「生涯の師」「生涯の鑑」と仰いで、信玄を理解しようし、同じように生きようとした。その結果が「天下人」ではなかったか。
天正10年(1582)3月、勝頼の「武田家」は滅亡した。この時に当たって信長は「名のある甲州武士は見つけ次第殺せ」として武田家臣団を皆殺しにした。
だが、家康はこうした信長の命令に従わず、甲州武士と知るとその多くを匿(かくま)い、駿河など信長の目に付かない場所に逃れさせた。勝頼が滅びたとはいえ、この時点で武田家臣団は少なくとも3、4千人は残っていたと思われる。その甲州武士を家康は欲しかった。
6月、本能寺の変で信長が横死(おうし)すると、家康はその確実な死を確認する前に、家臣の岡部正綱(おかべまさつな)に宛てて「甲斐・下山に移動して、より良い場所に城を築け」と書状で命じ、さらには本多正信(ほんだまさのぶ)を甲府にやって武田家臣団の生き残りを捜し集めていた。それが、本能寺以後の「天正壬午(てんしょうじんご)の戦い」といわれる甲州・信州を巡る徳川・上杉・北条による三つ巴の争奪戦に繋がっていく。
家康は「徳川に仕えるならば、武田旧臣のすべてを信玄・勝頼時代と同じ所領で遇する。過去は問わない。希望する者は残らず出て参れ」と呼び掛けた。家康の呼び掛けを知らせた中には、依田玄蕃(よだのぶしげ)・真田信尹(さなだのぶただ)などがいた。こうした呼び掛けに応じて1107人(895人とも)が家康に仕えることになる。
たとえば、曲淵庄左衛門(まがりぶちしょうざえもん)という者は、武田時代には100貫の知行があった。家康はこの曲淵に相模で500石を与えている。
また家康が最も愛した武将・井伊直政(いいなおまさ)には武田軍団の象徴的存在でもあった「赤備(あかぞな)え」を再編するよう命じ、赤備えゆかりの武田旧臣をも直政に与えた。これが後の「井伊の赤備え」となり、直政が「井伊の赤鬼」と呼ばれる原因になる。
家康にとって、生涯忘れられない敗北合戦がある。元亀3年(1572)12月22日の遠江(とおとうみ)・三方ヶ原合戦である。信玄の武田軍2万5千に対して、信長の援軍3千を併せた徳川・織田連合軍1万2千。浜松城を横目に見て通り過ぎる武田軍団に無謀にも突き掛かった家康は、完膚なまでに叩かれ「死傷者は武将級まで含めて1千200。負傷者は限りなし」という完敗を喫した。
家康は逃げに逃げ、浜松城に辿り着く前に馬上で恐怖のあまり脱糞したという。その時に描かせた自画像が(徳川美術館に展示されている)床几(しょうぎ)に腰を掛け、左足を抱え込み、左手を顎に当てがい、意気消沈した姿で「家康のしかみ像」といわれる。この自画像に、家康の信玄への憧れが示されているという。つまり、家康は敗戦に打ちひしがれる自分の惨めな姿を描かせることで、将来の自分への発憤材料にしようと考えたのだった。
家康に仕えた武田旧臣から、金山奉行・老中として初期徳川政権を支えた大久保長安(おおくぼながやす/ちょうあん)、「甲州流軍学」を樹立した小幡山城守の息子・景憲(かげのり)、柳沢刑部の孫・吉保(よしやす)などが出ている。