×
日本史
世界史
連載
エンタメ
誌面連動企画

信玄から「我が両眼の如し」と賞された知謀の将・真田安房守昌幸(さなだあわのかみまさゆき)

孫子の旗 信玄を師匠とした武将列伝 第5回

人質として信玄の下に送られたことによりその才能が開花

 

その軍略、智謀は、豊臣秀吉をして「表裏比興の者」と一目置かれた。図版は昌幸の初陣をモチーフにした歌川国芳の浮世絵。

 真田幸隆(ゆきたか)の三男として天文16年(1547・異説あり)に生まれた昌幸(まさゆき)は、天文22年(1553)に7歳で、信玄(晴信)の下に人質として送られる。幸隆に小県郡のうち秋和(あきわ)350貫の領地を与える保証としての人質である。戦国時代には、こうした人質政策はよくあった。裏切りを想定しての人質ではなく、あくまでも「武田に逆らわない」旨を信任してもらうための人質といってもよい。

 

 信玄の側にしてみれば、麾下(きか)の将の子を預かり英才教育をして将としての器に育て上げる、という考え方もあった。双方とも、行儀見習いのような感覚であったかもしれない。

 

 源五郎昌幸は信玄の奥近習(小姓)として仕えた。この当時の奥近習には、すでに記した金丸平八郎(土屋昌次)も同僚としていたし、他にも曽禰(そね)孫次郎(昌世)・三枝(さいぐさ)宗四郎(守友)・辻弥兵衛(盛昌)らがいた。いずれも後の侍大将になる面々である。

 

 信玄には子弟教育に一つの方針を持っていた。いわゆる人材教育ということだが、こう言っている。

 

 「生まれつき素直な性格の者は、老巧の者に弓矢のことはもとより、何事によらず指導を受けると、行儀が良くなり、武士として万事に成功者となりうる」

 

 「特に七つ八つの頃から十二、三歳までの教育がモノをいうのだ」

 

 「中でも声変わりする時分が大事だ」

 

 昌幸も奥近習として信玄のそば近くで仕えながら、信玄による軍略・政略の薫陶を受けていった。才能があった昌幸は、さらにその才能の芽を伸ばし、信玄にも着目される存在になった。武田家滅亡後に、昌幸が豊臣秀吉から「表裏比興のもの(裏表があって卑怯な男)」とまで言われた昌幸の軍略的才能は、信玄によって培われた才能に他ならない。

 

 昌幸の初陣は、永禄4年(1561)9月の第四回川中島合戦。金丸平八郎らとともに、奥近習として信玄本陣を守ることであった。

 

 昌幸は、ここでも信玄から合戦についてのいくつかを学ぶことになった。

 

 昌幸は、真田家出身ながら兄二人(信綱・昌輝)がいて、真田家を継承できる立場ではなかった。信玄は、その才能を惜しんで絶えていた名門・武藤家(信玄の母・大井夫人の血縁にある)を継ぐことを命じた。これによって武藤喜兵衛尉昌幸となる。武藤家を継承したことは、武田家の重臣として認められたことになる。

 

 こんなエピソードがある。信玄は昌幸と曽禰昌世の二人を、奥近習から奉者という役割に昇進させた。奉者とは普通の行政官的な仕事をしながら、信玄の命令でその意向を家臣団に伝達するとともに、各種情報を収集整理して信玄に知らせる職務であった。信玄は二人をして「我が両眼の如し者」と呼んだという。文字通り、信玄にとって両眼の役割を果たすことであった。そして合戦時には、そのまま使番(伝令将校)であり、軍監(検使役)でもあった。同時に二人は足軽30人・騎馬15騎を預かる足軽大将となった。

 

 このようにして昌幸は「信玄の直弟子」として成長していった。

 

 昌幸には有名な男児二人がいる(正式には11人の男女が生まれているが)。長男は源三郎信幸(信之)、二男が源次郎信繁(幸村)である。

 

 昌幸といえば「知略・謀略」に秀でた武将のイメージが強いが、実は本格的な武将として合戦にも強かった。三方ヶ原合戦でも馬廻(うままわり)衆として活躍している。

 

 天正3年(1575)5月の長篠合戦で兄二人が討ち死にしたことで、昌幸は武田勝頼から改めて真田本家を継承することを許された。武藤姓から真田姓に復帰した昌幸は、武田家の先方衆として岩櫃(いわびつ)城・沼田城など上野国での進出を果たしていく。

KEYWORDS:

過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

最新号案内

歴史人 12月号

大図解!戦国武将の戦時と平時

知られざる「陣中暮らし」から「衣・食・住」まで