信玄の敵から味方に変身した鬼謀の将・真田幸隆
孫子の旗 信玄と武田軍団 第7回
信玄を救った知謀の勇将

現在の戸石(砥石)城跡(長野県上田市)。村上義清と武田信玄による争奪戦が繰りひろげられた戸石城は、天険を利用した守備力の高い典型的な山城であった。だが、真田幸隆の巧みな調略によりあっけなく落城する。
武田信玄が初めて合戦で敗れたのは、北信濃の猛将・村上義清(むらかみよしきよ)との上田原合戦(天文17年)であった。この合戦で信玄は、宿老ともいえる板垣信方(いたがきのぶかた)・甘利虎泰(あまりとらやす)・初鹿野伝右衛門(はじかのでんえもん)らを失った。
その2年後の天文19年(1550)9月、信玄は雪辱を期して再び義清に挑んだ。小県(ちいさがた)における義清の拠点・戸石城(といしじょう)を攻めたのである。
だが、この合戦でも村上軍に背後から襲われて武田軍は総崩れになった。この戦さでも宿老・横田備中守高松(よこたびっちゅうのかみたかとし)が討ち死にしている。
信玄は2度までも義清に完敗したのだった。「戸石崩れ」といわれる敗戦であった。ここに真田弾正忠幸隆(さなだだんじょうのじょうゆきたか)が登場して信玄を救う。
信玄の父・信虎は、義清と組んで信濃・海野平(うんのたいら)合戦などで、小県を領していた海野棟綱(うんのむねつな)を上野国(こうずけのくに)に追い払った。
棟綱の娘婿(棟綱の二男など諸説あり)で滋野(しげの)一族(海野・望月・禰津)の1人・真田幸隆(さなだゆきたか)は、信虎後の甲斐武田氏に仕えた。
「本貫の地である小県を取り戻すためには敢えて仇敵にも仕えよう」
という幸隆。これに対して、北信濃攻略を目指す信玄には、知謀の勇将であり、地の利にも長けた幸隆は最も欲しい人材であった。
幸隆は永正10年(1513)生まれ。真田郷に住み「真田」を姓とした。年齢は信玄よりも8歳年長であった。父は松尾城主・真田頼昌(さなだよりまさ)。元服して源太左衛門(げんたざえもん)を名乗る。
小県の地を追われ上州・箕輪城(みのわじょう)にいた幸隆は、武田家の代替わり(晴信が信虎を逐って守護の座に就いたこと)を知って、天文11年(1542)12月、武田家臣だった禰津元直(ねづもとなお)を仲介にして信玄(当時は晴信)に臣従した。
幸隆はこれを機会に、真田の旗印を「六文銭」(ろくもんせん)に決めた。六文銭は三途の川の渡し賃。死を恐れずに戦う強烈な意志をこの旗印に込めたのだった。
その後、信州先方衆として目覚ましい活躍を見せた幸隆は、信玄の深い信頼を得るようになっていた。上田原合戦・戸石崩れと、2度に渡る義清との合戦敗退は、幸隆に故地復活の機会を与えた。
信玄は「戸石城を攻略できたなら千貫文(約1億円近く)の所領を与える」という手形を出した。
幸隆は、戸石城攻略の策を練った。謀略である。幸隆を裏切った家臣が義清に泣き付くという芝居を、託された家臣たちは見事に演じきり義清を騙した。
500の義清勢が幸隆によって討ち取られ、さらに守備兵を買収してから幸隆は戸石城を攻撃し、ほとんど無血で戸石城乗っ取りに成功した。天文20年(1551)5月のことであった。義清にとって戸石城は、小県・佐久を守るための拠点であった。
この幸隆の乗っ取りによって、2年後には義清は本拠の葛尾城(かつらおじょう)から越後の上杉謙信を頼って落ち延びることになる。
こうして幸隆は、滋野一族が逐われてから11年目に故地を回復したのだった。以後、幸隆は信濃・上野など第1線で武田の先鋒として戦い続け、「真田」ブランドを確立したのである。
幸隆の戦い方は、寡兵(かへい)で大軍を打ち破るというもので、そのために情報収集を徹底し、敵を寝返らせるなどの策も重ねた。このため「鬼謀の将」(きぼうのしょう)とも見なされていた。
真田忍者などの存在も、幸隆によって育成された。幸隆は、信玄が没した翌年の天正2年(1574)、62歳の大往生を遂げる。
幸隆には、信綱(のぶつな)・昌輝(まさてる)・昌幸(まさゆき)・信尹(のぶただ)の男児があり、後に「真田」本家を継承した3男・昌幸の子が、信幸(信之)・信繁(幸村)である。いずれも幸隆・昌幸のDNAを承けた知謀の将となる。
なお、信綱・昌輝は長篠合戦で討ち死にしてる。
4男・信尹は武田滅亡以前に徳川家康に仕えている。その縁から、信之は真田家を徳川幕府の大名として明治まで残している。