最も信玄に信頼された武田4名臣の筆頭・山縣昌景
孫子の旗 信玄と武田軍団 第6回
信玄に遺言を託された武将

山縣昌景の最期となった長篠合戦では、武田勝頼の撤退を援護し、織田・徳川連合軍の追撃の楯として奮戦する。
武田軍団は時には「武田24将」と呼ばれる。その中でも突出した存在を「4名臣」とも呼ぶ。山縣三郎兵衛尉昌景(やまがたさぶろうびょうえのじょうまさかげ)・内藤修理亮昌豊(ないとうしゅりのすけまさとよ)(昌秀)・馬場美濃守信春(ばばみののかみのぶはる)(信房)・高坂(春日)弾正昌信(こうさかだんじょうまさのぶ)の4武将である。
いずれも信玄の信頼厚い智将・勇将であった。恐らく信玄にとっては甲乙付けがたい存在であったろうが、元亀4年(天正元年・1573)4月12日、信州・伊那の駒場で生涯を閉じる瞬間に枕頭に呼んで遺言を託した、と伝えられているのが、山縣昌景(やまがたまさかげ)である。
昌景は、旧姓・飫富源四郎。信玄の重臣・飫富虎昌(おぶとらまさ)の弟である。15歳で信玄の近習衆・使い番として仕えた。以後、エネルギッシュに、しかも合戦場だけではなく、あらゆる方面(内政・外交・治安・戦略)に活躍した。小柄だが動作は敏捷で、戦略・戦術にも長けていた。永禄7年(1564)の「義信事件」によって兄の虎昌が謀反の罪を着て断罪された後、信玄によって断絶した「飫富」姓の代わりに「山縣」姓を与えられた。
山縣家は甲斐武田譜代の名家であったが後継者がなく絶えていた。以後、山縣昌景を名乗る。300騎の侍大将に出世し、その名前は他国にも知られるようになっていく。昌景が率いた軍団は、兄・虎昌の「赤備え(甲冑から槍刀まですべてを赤色に統一)」であった。いわば「武田最強の軍団」ともいえた。軍団の先頭を駆ける先駈けの旗印は昌景の「黒地に白桔梗」であり、旗印と赤備えは、敵軍の恐怖の的になったとも伝えられる。
この軍団と昌景の活躍が最も良く伝えられるのは、元亀3年12月の「三方原(みかたがはら)合戦」であろう。西上の途に着いた信玄の別働隊5千を率いた昌景は、本隊2万5千に合流して、1万2千で浜松城から出陣してきた徳川・織田連合軍を完膚なきまでに打ち破った。
31歳の徳川家康は果敢に武田軍団に撃ち掛かったが、結局敗れて逃走。浜松城に逃げ戻る家康を追い掛けたのが、昌景と赤備え軍団であった。家康は、恐怖のあまり馬上で脱糞し、帰り着いた後に敗戦で震える自分自身の絵を描かせたという。有名な「しかみ像」がこれで、恐怖におののく自分の絵を残すことで、将来の発憤の材にしたというのだ。
武田勝頼(たけだかつより)滅亡後に、家康が武田旧臣を召し抱え、中でも赤備え軍団を大事にして、井伊直政(いいなおまさ)に与えたのは、山縣昌景への敬愛があったからだと伝えられる。
ところで、昌景は飫富虎昌の弟とされるが、実はその年齢差は25歳もの開きがあった。長兄と末弟という関係からの年齢差はあったかも知れないが、やや年齢が離れすぎている。異母兄弟であったとしても、である。
ここに1つの仮説がある。萩藩・毛利家が江戸時代に家臣団に命じて集めた文書類を集成した『萩藩閥閲録(はぎはんばつえつろく)』(歴史上も1級資料とされる)がある。
これは、甲斐武田氏と同様に清和源氏・新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)を祖とする安芸武田(あきたけだ)氏(若狭武田もこの流れにある)には、武田・板垣・内藤・一条・秋山・山縣・飫富などの名字を持つ武将がいた。『閥閲録』はこれらを網羅している。
つまり、安芸武田氏が大内、さらには毛利によって滅ぼされた後に、甲斐源氏に連なるこれらの名字の持ち主は毛利家に従った。このうちの山縣姓を見ると、山縣昌景は飫富虎昌の弟ではなく姉の子で、母の死後に継母と不和になり、叔父である飫富虎昌を頼って11歳で甲州に入ったと記されている。
甲州と安芸(山口県)とは遠すぎる気がするが、室町時代の初期に武田氏は甲斐・安芸の守護になった関係で、両者の交流はあったものと思われる。この延長上に、山縣昌景と飫富虎昌の関係もあった筈である。昌景に関する異説だが、検討に値しよう。
昌景は、天正3年(1575)5月の長篠合戦(設楽ヶ原)で馬場・内藤らとともに討ち死にした。享年46(と推測される)。