真田昌幸も憧れた武田信玄の弟・信繁
孫子の旗 信玄と武田軍団 第2回
信玄の弟・信繁については、合戦で活躍する武勇と知性を兼ね備えた人物としてのエピソードが多く残っている。信玄とともに武田家の興隆を支え、真田昌幸からも敬愛されたという信繁はどんな人生を歩んだのだろうか。
信玄を支え武田家を守った「典厩様」(てんきゅうさま)

思慮深く教養も持ち合わせた武田信繁は、信玄の片腕として合戦、領国経営、家臣団統制と幅広くその手腕を発揮した。
混乱・激動・下克上といわれる戦国時代は、国主大名といえども、家中の統制は必須条件であった。特に兄弟は、信頼すればこれほど頼もしい存在はないが、不信感を持てば眼前の敵以上に厄介な存在になり得た。織田信長にとっての弟・信勝(信行)、伊達政宗にとっての弟・小次郎、上杉謙信にとっての兄・晴景などが後者の代表的な例であろう。
だが逆に、前者に該当する人物として豊臣秀吉にとっての弟・秀長、島津義久にとっての弟・義弘などが挙げられる。中でも武田信玄の弟・信繁は、際立って聡明で思慮深く、知略・武勇に優れていた点で、戦国武将の兄弟(片腕)としては、最高位と思われる1人だった。
信繁は、 大永4年(1524)に信虎の二男として誕生した。母も信玄同様に大井夫人である。幼名は次郎、元服して左馬助(さまのすけ)信繁と名を改めた。兄・晴信(信玄)より4歳年少だが、要望・骨格ともに兄に生き写しであったともいう。ゆえに、合戦に際して危険を晒す時には兄・信玄を後方に退かせて自分が先頭に立って戦ってきた。
信繁が「典厩」(てんきゅう)と呼ばれるのは、左馬助という官名が馬寮官の役割を示し、唐名を「典厩」というからである。人柄も良く家中に慕われたことから「典厩様」として親しまれたのである。
信繁は、その性格や武勇ぶりから兄嫌いの父・信虎に好かれ、将来は武田家の惣領の座に、というのが信虎の考えであったという。だが信繁は、こうした信虎の思惑には乗らず、信玄が信虎を駿河に追放するクーデターの際にも信玄に同調した。もしも信繁が信虎追放に反対したならば、武田家は伝統的な「内訌」(ないこう)に陥っていたはずであった。いわば、信繁が父ではなく兄に従った思慮深さが信玄と武田家を救ったことになる。
信繁の大きな功績に永禄元年(1558)に嫡子・信豊に与えた「家訓99ヶ条」(信玄による「甲州法度」とは別)がある。そこでは「主家の命令に決して背いてはならない」「御屋形様からどんな仕打ちを受けても不満を述べてはならない」「(合戦で)味方が敗れた場合にはひとしお力を入れて戦わなくてはならない」など、ひとえに主家・御屋形様への忠誠を中心に据えて、道徳・行儀作法、戦時や日常の武士の心構えなど生活全般について事細かに説いている。
歴史に「イフ(もしも)」は禁物とされるが、信繁が永禄4年(1561)の第4回川中島合戦で討ち死にしなかったならば、その直後ともいえる時期に起きた信玄の嫡男・義信事件(父子二人の間に確執が起こり、義信は廃嫡されて後に自刃、あるいは病死とも伝えられる)は、起こり得なかったであろう。信繁は、それほどに信玄・義信ばかりか武田家にとって大きな存在であった。
信繁は、この川中島合戦で柿崎景家(かげいえ)隊と華々しく戦い、さらには宇佐美駿河守定行隊との戦いで壮絶な死を遂げた。37歳であった。後を継いだ嫡男・信豊もまた左馬助を名乗ったことから「典厩」と呼ばれたから、信繁は「古典厩」と呼ばれる。その信豊は父の家訓をよく守り武田家と勝頼に仕え、天正10年(1582)、織田・徳川連合軍による侵攻の際は小諸城にいて自刃している。
武田家臣団で、信繁を最も敬愛したのが真田昌幸であった。昌幸は、後に甲府で生まれた二男(幸村)を、信繁にあやかってそのまま「信繁」と命名したほどである。
さらに昌幸の長男・信之は、大坂の陣で弟・信繁(幸村)が討ち死にした後の元和8年(1622)、将軍・徳川秀忠の命によって信州・上田から松代に移封されると、弟・信繁を開基として、川中島合戦で武田信繁が討ち死にした場所近くに松操山(しょうそうざん)典厩寺を建立して信繁の慰霊と永代供養を施した。それほどに、武田信繁は真田氏からも敬愛された武将であった。