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もしも武田信玄が三方ヶ原の戦いの後に病に倒れず織田信長へと迫ったら?【前編】

戦国武将の「if」 もしも、あの戦の勝敗が異なっていたら?


幼いころから「神童」と評され、戦国最強ともいわれた騎馬軍団を率いて、その名を轟かせた戦国の名将・武田信玄。のちに天下人となった織田信長とは年代の違いによって、戦うことはなかったが、信玄の晩年、激突間近となったことはあった。信玄の上洛作戦である。信玄はその途中で病に倒れ、この世を去ったのだが、もし信玄がこのとき倒れず、そのまま進軍したら、歴史はどうなっていたのだろうか?


 

兵の消耗を避けたい武田信玄は浜松城の徳川家康を素通り

 

武田信玄

戦国最強との呼び声もあがる武田信玄は京へと上る作戦を立て、織田信長の目前まで迫ったことがある。

 

「遠三(遠江と三河)から濃尾(美濃と尾張)へ発向し、存命の間に天下を取って京に武田菱の旗を立て、仏法、王法、神道、諸侍の作法を定め、政を正しく執り行わんとの信玄の望み是なり」

 

 上洛し、京に武田菱の旗を立てることは武田信玄の宿願である。元亀3年(1572)9月、甲斐の虎は足利15代将軍義昭の求めに応じ、大義を得て上洛軍を起こした。

 

 前年、織田信長は比叡山を焼き討ちした。仏法の庇護者として信玄は信長を、

 

「天魔の変化なり」

 

 と、非難する。仏敵信長打倒を標榜し京への道を踏み出した。

 

 宿敵上杉謙信を牽制するため本願寺顕如と結託して越中で一向一揆を起こさせる。謙信は一揆の鎮圧に追われ、信玄の野望を阻止する余裕がない。また、冬季でもあり、雪が謙信の活動を制限する。

 

 浅井、朝倉との連係も必須だった。織田方諸勢を牽制させる。

 

 かくて、9月29日、信玄は山県昌景と秋山信友に兵3000を預け、三河に侵攻させた。10月3日には信玄自身も2万2000の軍勢を率いて甲斐府中から出陣し遠江に及ぶ。

 

 甲斐兵は強い。

 

「人は石垣、人は城、人は堀」

 

 信玄は兵の能力を伸ばし、技量を十分に発揮できるよう育てていた。甲斐兵一人は他国の兵の5人に匹敵するとも言われる。

 

 10月13日、武田軍本隊は只深、天方、一宮、飯田、挌和、向笠城など北遠江の徳川方諸城をわずか1日でことごとく攻略した。山県昌景は柿本城や井平城を落として本隊と合流、秋山信友は東美濃の要衝岩村城を降伏させる。

 

 信長は近江の浅井、越前の朝倉、摂津の石山本願寺など包囲網の形成により、十分な対応が適わない。

 

 武田軍は10月14日に遠江一言坂で徳川勢を破り、12月19日、要害二俣城を攻略する。

 

 信長は濃尾で武田軍を撃退する戦略を立てた。

 

「武田の者どもを疲れさせ、数を減らせ」

 

 遠江から三河にかけ、武田軍を消耗させる。武田軍が濃尾に入ったら、小牧、小牧で抜かれれば岐阜、岐阜を破られたら関ヶ原と投入可能な全兵力で迎え撃ち、勝てなくとも進撃を止める。要は武田軍を京に上らせなければよい。

 

 対して、信玄は織田軍を撃破して京に上らなければならない。そのため、

 

「小物に関わるな。城攻めで時を費やすは愚か。かかって来れば、こちらに幸い、叩き潰してやれ」

 

 織田軍と決戦するまでは将兵の消耗を最小限に抑えたかった。

 

 武田軍は徳川の領地を蹂躙し、浜松を素通りして上洛を急ぐ。この屈辱に家康は奮起し、形勢不利ながら、

 

「命を賭して後の世の声望を購う」

 

 12月22日、三方ヶ原にて武田軍へ戦いを仕掛けた。これは信長の思惑通りであり、家康も武田軍を消耗させるための一駒に過ぎない。結果は徳川方の大敗に終わった。家康が逃げる途中、恐怖のあまり脱糞するほど武田軍は強かった。

 

徳川家康

徳川家康は三方ヶ原での戦いに脱糞した姿を描かせ、生涯の戒めとして残したという。


三方ヶ原古戦場

三方ヶ原古戦場

 

 信玄はさらに西へ軍勢を進める。

 

 年明けて信玄は三河に入った。元亀4年(1573)2月10日、野田城を落とし、信長の膝元、尾張を睨む。

 

 武田信玄対織田信長、決戦の時が迫る。

 

 

尾張の拠点・守山城を確保した武田信玄は織田信長の眼前に現れる!

 

 野田城攻囲中、信玄は体調を崩した。これにより野田城攻略に1カ月以上も要してしまうが、甲斐府中発向から3カ月余り、将兵の疲労と今後まだ行軍を考えれば、ここで休養も兼ねていた。負傷した将兵を甲斐へ帰し、新手と入れ替える。信玄自身も、侍医の板坂法印や御宿監物が手を尽くし、回復する。

 

 この間、本隊と別働する秋山信友は岩村城を奪取した後、信長の本拠、岐阜へ突き進む。途上、小里、金山、犬山と織田方の城はあるが、すべて関われば、時を費やす。織田方も備えは万全であろう。虎繁は織田方の予測の裏をかき、一気に西美濃へ入り、加治田城を攻めた。

 

 加治田城から岐阜城へは7里(28キロ)しかなく、まさしく信長は喉元に刃を突き付けられる。また、秋山隊が中濃の諸城と岐阜城の間に入ることで、織田方の連繋を断ち切った。もし、中濃諸城の将兵が加治田城奪回に動けば、岩村城から下条信氏が討ち出して奪ってしまう。

 

 武田軍本隊は尾張を侵し、沓掛城を取って侵攻の拠点とする。

 

 織田方の濃尾諸支城へ信長は、

 

「敵がかかり来れば、退け。退くなら、引き付けろ。個々に功名争いをせず、挙って当たり、追い崩せ!」

 

 と指示していた。濃尾に数ある城砦は武田軍を順次叩くために存在する。

 

 武田軍は甲斐から尾張へ70里をすでに5カ月遠征し、将兵の疲労は日に日に増している。そこへ小刻みに当たって消耗を蓄積させていく。

 

 沓掛城の次に丸根、鷲津、大高、鳴海と城砦がある。これらを押さえれば、確かに海路からの輸送も適い、兵站に都合がよい。が、遠回りになる。

 

 信玄の威風、諸将の統制、そして、一応連戦連勝していることで士気こそ落ちていないが、兵の消耗は否めなかった。

 

 信玄は大高城や鳴海城など織田方の要衝に関わる時の消耗を避け、美濃への直線上に位置する守山城へ向かった。信長が濃尾の防衛拠点とする小牧へは2里半(6キロ)ほどでしかない。

 

 信玄は守山城を確保し、尾張に拠点を得た。信長が待つ小牧はもう目と鼻の先まで迫ったのである。

 

織田信長

天下人・織田信長も常に武田信玄を脅威だと考えていたひとりであった。

 

監修・文/竹中 亮

歴史人電子版『戦国武将5人の「if」 もしも、あの戦の勝敗が異なっていたら?』より

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