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もしも明智光秀が山崎の戦いで勝利していたら、家康との関係はどうなったのか?

戦国武将の「if」 もしも、あの戦の勝敗が異なっていたら?


もしも明智光秀が本能寺の変の後に、山崎の戦いで豊臣秀吉を倒すことに成功していたら、その後の戦国時代はどうなっていたのか? 同じ時代に頭角を表していた徳川家康との関係性と、光秀のその後の活躍について考察する。


 

小牧長久手の戦いを招く信雄と足利幕府と膠着関係の家康

 

小牧長久手の戦いで徳川家康が布陣した小牧城(別名・小牧山城。愛知県小牧市堀の内)。現在は「小牧市歴史館」として郷土の歴史を伝えている。

 本能寺の変の際、織田信雄(のぶかつ)は闇に紛れて抜け出し、三河国岡崎の徳川家康のもとへと落ち延びていた。これが天正12年(1584)小牧長久手の戦いを誘発することになる。

 

 そして北ノ庄が焼亡し、信孝の自害でかろうじて逃げおおせた武将たちは尾張国から三河国へ入っていた。

 

 そして慶長8年冬、京都天寧寺(てんねいじ)。時間まで凍てついてしまいそうな寒気の中、家康はひとりの人物と相対している。袈裟を纏い、僧体となってはいるが、明智光秀である。江戸の建設に精魂を傾けている家康をわざわざ上洛させたのはこの男だったが、出家して早や3年を数えるといい、この頃では延暦寺東塔の子院南光坊に身を置いて焼き討ちされた伽藍の復興に尽力しているという。それが何故自分に面談を求めてきたのか、家康はいささか腑に落ちない。 なにせ、光秀には2度も煮え湯を飲まされている。

 

 1度目は先にも触れた小牧長久手の戦いであるが、火種となったのは織田信雄だった。信雄としては父信長の汚名を雪ぎたいというのが念願で、また織田家のために命を落としていった秀吉や勝家などといった家臣らに報いたいという名分もあった。

 

 しかし足利幕府はそうした信雄の歎願を退け、それに憤激した信雄は家康に対して共に歎願してくれと訴えた。だが、家康としても莫迦ではない。峻拒(しゅんきょ)した。信雄は逆上した。旧臣どもを束ねて清洲城を占拠するという暴挙に出、後詰には徳川軍ありと大いに喧伝したのである。家康はやむをえず軍馬を上げ、後詰めとして小牧城に布陣した。

 

 足利義昭にしてみれば勿怪(もっけ)の幸いだった。信長の義兄弟で目の上の瘤とも思っていた家康に難癖をつけるのは今を擱いて他日なしと踏み、執権の光秀に命じて犬山城へ進出させたのである。

 

 要するに光秀と家康は義昭と信雄の代理合戦に駆り出されてしまったことになるのだが、もはや後には引けなくなっていた。天正12年3月も半ばのことである。この犬山城の幕府軍と小牧城の徳川軍の睨み合いはひと月ほど続き、そこかしこで小さな小競り合いも生起したが、合戦の趨勢を決めたのは、明智方に参陣していた池田恒興と堀秀政の献策による迂回作戦だった。中入りと呼ばれるもので、兵を割いて三河の岡崎を強襲することで家康を戦場へ誘い出そうとするものだったが、たしかに釣り出しには成功したものの、家康みずから率いた人馬は強く、一気に恒興と秀政の手勢を潰滅させ、家康の留守を狙った光秀ひきいる幕府軍の小牧城への攻撃も家康方の本多忠勝に邀撃(ようげき)されて思うに任せなかっ た。

 

 ところが今ひとつ、幕府軍には 別動隊があった。明智左馬助、明智 長閒斎、斎藤利三らが紀州の雑賀衆・根来衆と共に長宗我部元親の水軍により、海路、三河湾から矢作川を遡って岡崎城を攻め、陥落占領したのである。この一撃で、和睦となった。しかし、家康は岡崎の本領を、 信雄は清洲の小領を、それぞれ安堵されただけの小名に落とされてしまった。その際の絶望と屈辱は、片時たりとも忘れていない。

 

義昭死去で秀吉子飼いの小名は家康のもとに集まり関ヶ原へ

 

 小牧長久手の戦いから16年後の慶長5年9月15日、大戦が勃発した。これは慶長2年(1600)8月28日、足利義昭が他界したことに端を発する。室町幕府第16代将軍には義昭の嫡子義尋(ぎじん)が就き、光秀もこれを機に隠遁しようとしたが、そうはならな かった。家康がまたもや叛旗を翻したからである。

 

 小牧長久手より足利家と徳川家には亀裂が生じており、この両家にそれぞれ秀吉の子飼いから大名となった諸侯がついたことで、 完全に破局してしまった。当初、光秀は両家の狭間に立って和解させようとしたが、小田原の北条氏が滅んだ後に江戸をあてがわれていた家康のもとへ足利幕府への不満を滾らせ た諸大名が従うようになり、ついに 関ヶ原で相覲(あいまみ)えることとなってしまった。

 

 結果を先にいってしまえば、幕府軍が勝利した。実をいうと、このとき光秀は大津城に入り、後詰めについていた。戦さの采配はこのところ頭角をあらわしてきた石田三成に任せてあったからだが、どうにも不安があった。案の定、三成は敗走した。小早川秀秋の裏切りが引き鉄(がね)になったもので光秀が軍馬を繰り出したのはそのときである。大津城を後にして関ヶ原の門口に達していた光秀は、 率いてきた立花宗成と毛利元康の軍馬もろとも決戦場に躍り込んだ。

 

 この光秀軍に煽られるように島津義弘、毛利秀元、安国寺恵瓊、長宗我部盛親らの諸勢が家康の本陣をめがけて殺到した。家康はふたたび負けた。

 

 光秀は京へ凱旋するや、足利義尋に隠居を願い出、認められた。幕府と距離を持とうとしたためか、遙か武蔵国は無量寿寺北院の住持となって赴いたのだが、20年勤めた執権の

座は嫡子の十五郎に譲られた。十五郎は幼名を自然丸といい、本能寺の変の後に元服して光慶(みつよし)と改め、光秀を補佐し続けてきた。しかし管領職を譲られて3年後の慶長8年に義尋と仲違いし、父親の後を追うように出家してしまったのである。

 

 光慶には弟がいて晴光といい、妙心寺の塔頭大心院の三英瑞省のもとで修行し、妙心寺の塔頭瑞松(ずいしょう)院の住持となって玄琳(げんりん)と名乗っていた。光慶はこの玄琳を頼って出家し、和泉国鳥羽村に一山を建立した。開基となった寺は海雲寺とつけ、おのれは南国梵桂(ばんけい)と名乗った。

 

 ちなみに隣村の貝塚は本願寺の寺内町で、鷺森別院にいた顕如も天満本願寺へ移る前に身を置いていた。いわゆる貝塚本願寺であるが、その頃、海雲寺は小さな庵があるばかりで大日庵と呼ばれていた。

 

 光秀も幾度か逗留したことがあり、 そうした縁を光慶は手繰って堂宇を建立したものらしい。海雲寺は後に岸和田へ移って本徳寺と改称される のだが、それは光秀や梵桂の知るところではない。ともかく、執権(管領)という歯止めの無くなった幕府は暴走し始めた。

 

足利義尋を制し天海(光秀)は 家康に征夷大将軍就任を要請

 

 たとえば、大坂城がそうである。将軍義尋は、本能寺の変の二の舞となるのを恐れたものか京から大坂へと幕府を遷し、そのために過酷な徴税と労役を課し、とてつもない城を造り上げた。大坂城であるが、焼け落ちた石山本願寺の遺構を情け容赦なく撤去して建設した。喝采した者はひとりとして無かった。当然な話だった。義尋の施政は典型的な暴政といえたが天下に敵無しの足利幕府に諫言するような大名はいなかった。

 

 「だからというて、このまま幕府が 存続すれば、国は滅びまする。乞う、起たれよ」

 

 天寧寺で対峙する光秀はそう言い、家康はまたもや乗せられた。いや、人生最後の賭けに出た。だが、決戦の地となった霊峰富士の裾野に布陣したとき、後悔した。おのれの率いる兵は譜代衆およそ2万で、徳川勢を取り囲んでいる幕府恩顧の諸国勢は10万に近かった。勝ち目はないと、死を覚悟した。

 

 ところが、灼熱の夏陽が沖天に達した正にその瞬間、樹海が動いた。森の中から現れたのは、天海率いる50万はあろうかという大軍勢で、延暦寺の再興に尽力する光秀のために諸国から参集してきた僧兵と民草だった。高野山や本願寺の僧もいれば、海賊も百姓も商人もいる。皆、足利幕府の圧政に苦しみ、人生に絶望しかけた人々だった。義尋は、膝を屈した。

 

 足利義尋には、正室の古市胤子との間に子がふたりいた。しかし、共に将軍職を希むことはなく、おのおの、実相院門跡と円満院門跡となり、 のちのちまで戒律に生きた。義尋自 身は慶長9年10月、敗戦の責を負うて将軍を退位し、出家して大乗院門跡となり、翌年春には興福寺の大僧正となったものの、その年の1017日に没している。享年33

 

 家康は征夷大将軍に就任し、慶長10年2月12日、江戸に新たな幕府を開いた。ところがわずか2か月で息子秀忠に将軍職を譲り、元和2年4月17日に駿府で没した。享年73

 

 天海と名を変えた光秀は家康の亡骸を駿府の久能(くのう)山に葬り、一周忌を待って日光の東照社に分霊した。天海が入滅したのはそれから27年後の寛永2010月2日。廟所の慈眼堂は日光の輪王寺、川越の喜多院、そし て初めて城を持った近江坂本の恵日院にある。

 

監修・文/秋月達朗

歴史人電子版『戦国武将5人の「if」 もしも、あの戦の勝敗が異なっていたら?』より

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秋月達郎あきづき たつろう

作家。歴史小説をはじめ、探偵小説から幻想小説と分野は多岐にわたる。主な作品に『信長海王伝』シリーズ(歴史群像新書)、『京都丸竹夷殺人物語: 民俗学者 竹之内春彦の事件簿』(新潮文庫)、『真田幸村の生涯』(PHP研究所)、『海の翼』(新人物文庫)、『マルタの碑―日本海軍地中海を制す』(祥伝社文庫)など

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