もしも本能寺の変の後に信長の遺体が見つかっていたら?
戦国武将の「if」 もしも、あの戦の勝敗が異なっていたら?
歴史に「もしも」を考えると夢は膨らむ。日本史における契機となった戦いの勝敗が反転していたら、もし家康ではなく石田三成が幕府を立てていたら、などを考えると胸躍る──。ここではもし本能寺の変の後、信長が首を晒された場合、光秀の行動はいかに変わり、天下はどうなっていたのか? を考察。さらにその後の光秀のヴィジョンはどう実現されていったのか? 謀反を起こした男の苦難と伝統的な武家幕府の大義のあり方なども含めIfの世界を解説する。
織田信長の死後に天王山で明智光秀と豊臣秀吉が対決

本能寺跡京都市中京区元本能寺南町にある、本能寺跡の碑。本能寺は本能寺の変で全焼した後、すぐに再建されたが、場所は現在の寺町に移転している。
『天下の叛逆人織田信長の首』
そう掲げられた生首が五条河原に晒されたのは、天正10年6月3日未明のことである。
歴史はたったひとつの出来事があったかなかったかで大きく左右される。本能寺の変がそうである。その未明、四条西洞院(さいとういん)あたりは燻り続ける白煙が蟠り、霧に包まれたようだったが、鶏鳴に混ざって誰何(すいか)が聴こえた。本能寺の煙から転げるように抜け出してきた武士を歩哨が呼び止めたのだ。原宗安(むねやす)と名乗る武士は数名の足軽をつれそれぞれに鎧櫃を担がせていたことから不審を問われた。
案の定、中に納められていたのは3つの首級で、宗安は「これなるは、明智勢に討たれた父の胤重と兄の孫八郎清安、そして前の太政大臣近衛前久(さきひさ)さまの御首にて候」と申し述べたが、すぐに見破られた。というのも公卿の近衛前久その人が焼け跡から救い出され、その場に担ぎ出されてきたからだった。そして前久は仰天した。3つめの生首は、信長に他ならなかったからである。
実際、このとき、秀吉は光秀謀反の報せを得るや、京へ向かって急行していた。しかし、秀吉が備中高松から反転したとき得ていた情報では信長の首は行方不明とされていた。そこで策略を用いた。大返しの途上、中川清秀や高山右近らの摂津衆に宛てて「上様は難所を切り抜け、膳所に陣を構えておられる」と虚報を飛ばし、合力するよう要請した。
ところが、ほぼ時を同じくして京から報せが届いた。信長が晒し首となり、正親町(おおぎまち)天皇はこのたびの混乱を収拾するために鞆に滞在していた室町幕府第15代将軍の足利義昭に勅使を遣わしたのである。すぐさま上洛するよう促し、摂津衆には「その護衛に就くべし」との勅命が下ったのである。清秀と右近は「謀られるところであったわ」と秀吉への怒りを沸かせ、すでに義昭のもとへ進発していた丹後衆の一色義定と細川藤孝の後を追った。
秀吉にしてみればあまりも迂闊な戦術といえたが、この誤算により合力する武将が少なくなった。それでも池田恒興と堀秀政を魁に進軍を重ね、ついに京の南、山崎を指呼(しこ)に置いた。左右に織田信孝と丹羽長秀、後詰に中村一氏、その両脇に堀尾吉晴と神子田正治がついている。さらに別働の一隊を羽柴秀長に率いさせ、黒田官兵衛と蜂須賀正勝を従えている。秀吉はこの手勢をもって一気に北上すれば都へ難なく突入できると踏んでいたが、そうはならなかった。
秀吉の陣中にあった光秀の女婿津田信澄が「舅御(しゅうとご)の一大事」と抜け出し、このたび明智勢が奪取していた勝龍寺城へと急ぎ、注進におよんだのだ。
この6月10日、光秀はいまだ京にあったが、朝廷や幕府や旧来の宗教をないがしろにしてきた叛逆人の信長を成敗したと上奏し、公家や五山への礼儀も怠らず、早々に足利幕府の復興に尽力する旨の綸りん旨じ も頂戴している。これにより、光秀の声望は一気に高まっており、義昭が鞆を発したという報せが都中に轟き亘るや、どちらに与したものか逡巡していた畿内の諸将が相次いで光秀のもとへと参集していた。手勢を倍増させた光秀は明智左馬助、明智長閒斎、斎藤利三をひきつれて勝龍寺城へ入り、秀吉を邀撃するべく陣を構えた。
そんなことは秀吉は知らない。勝敗の分かれ目は天王山城の奪取にあると踏み、秀長ひきいる別動隊に天王山へ急がせたが、いきなり逆落としに掛けられた。光秀が急派した藤田伝五郎の要請に機敏に兵を挙げ、島左近を先鋒として郡山城から洞ヶ峠を越えてきた筒井順慶の手勢によるもので、秀吉は怨みの眼で天王山を見上げることしかできなかった。
おもいもよらぬ躓きに、秀吉に残された道はひとつしかなかった。光秀の敷いた円明寺川の防衛線を突破し、一挙に勝龍寺城を衝いて陥落させることだ。秀吉は直番衆の加藤清正、福島正則、大谷吉継、山内一豊、仙石秀久らをひきつれ、光秀方の阿閉貞征(あつじさだゆき)、溝尾茂朝(しげとも)、松田政近、並河(なびか)易家、津田正時にそれぞれ当たらせ、川を徒渉し、ついに勝龍寺城の攻防戦に突入した。攻め立てる秀吉勢に、光秀勢は抗する術もなく圧された。
城を守っていたのはもともと足利幕府の臣であった伊勢貞興、諏訪盛直、御牧兼顕(みまきかねあき)などだったが、如何せん絶対的な兵数が少ない。「もはやここまで」と誰もが口にした矢先、桂川の西岸に鯨波が湧き上がった。
可児才蔵(かにさいぞう)の嚮導(きょうどう)による足利幕府の本軍で、一色義定、細川藤孝、中川清秀、高山右近らが合流していた。形勢は逆転した。秀吉は単騎、逃れた。光秀らは秀吉を追ったが、石清水八幡宮のある男山へ逃げ込んだものと目され一帯を徹底的に捜索したが影も形もなかった。実は、このとき秀吉は京へ潜伏すべく伏見へ急いでいた。しかし、落ち武者狩りに遭い、無念極まりない死を迎えている。
監修・文/秋月達朗