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加藤清正は、なぜ七本槍最強の武将だったのか? 〜加藤肥後守清正〜

新解釈! 賤ケ岳七本槍列伝〜加藤清正、福島正則から片桐且元まで、秀吉をささえた勇士たちの実像〜 第6回

武将には珍しい日蓮宗の信者だった

清正は戦国屈指の槍の名手としても有名だ。その出発点は元服後に学んだ槍術の大家・宝蔵院胤栄の槍術と伝わる。イラスト/さとうただし

 加藤清正(きよまさ)は、尾張中村で鍛冶屋をしていた者の子どもであった、といわれる。さらには、太閤秀吉の縁続きの家でもあるとされる。真実は歴史の彼方にあるが、いくつかの説を見ると、半分以上は正しく、半分以上が不明といえよう。

 

 清正は、永禄5年(1562)6月、斎藤道三の家臣であった加藤清忠の子として生まれた。諸説あって、母は秀吉の母・なかの妹、あるいは従妹、あるいは伯母と姪、ともいう。いずれにしても、秀吉の母を通して清正と秀吉は、深い縁があったと思われる。よく知られている清正の幼名は「虎之助」。

 

 こんな話が伝えられている。清正の父・清忠は、道三が息子の斎藤義龍(よしたつ)と戦って討ち死にした戦で負傷して、尾張中村の知人・鍛冶屋清兵衛を頼った。清忠は戦傷によって破傷風を発症し、歩行が困難になったことから清兵衛に習って鍛冶職人になった。そして清兵衛の娘と結ばれて生まれたのが虎之助(清正)であった。ところが虎之助2歳の時に父親は病死した。遺言は「虎之助を立派に育てて由緒ある加藤家を再興させてくれ」というものであった。

 

 これ以来母親は、その遺言を果たすために努力した。日蓮宗・妙延寺という寺の住職・日順に虎之助を預けて、人間形成の基本を鍛えてもらった。後までも、清正が武将には珍しく日蓮宗の熱心な信者であったのは、この経験による。

 

 元亀元年(1570)、母親は8歳になった虎之助を連れて岐阜に向かい、縁者である木下藤吉郎(秀吉)の母・なかを訪れて虎之助の将来を依頼した。子飼いの郎党のいない秀吉は、この話に喜んで虎之助を引き受けると、母子共に木下家に引き取った。以後、秀吉夫婦は虎之助を我が子のように可愛がって育て上げた。

 

 これがちょうど浅井・朝倉連合軍と織田信長とが戦っている最中の時期であった。浅井長政を滅ぼした秀吉が長浜城を築いて城主となった後、15歳になった虎之助は、元服して「清正」を名乗る。清正となった虎之助は、宝蔵院胤栄(いんえい)から槍術を学んでいる。また、後に「加藤家の三傑」と呼ばれるようになる少年3人、森本義大夫・飯田角兵衛・庄林隼人を配下にしている。

 

 清正の最初の武功は、秀吉の中国攻めの一環である天正9年(1581)の鳥取城攻めだった。これは、秀吉が鳥取城を攻撃・包囲して兵糧攻めにした「干し殺し」戦法の戦いであった。この攻囲に取り掛かる前に、蜂須賀正勝とともに清正は敵情視察に出た。この視察では、陰から攻撃してきた敵兵を清正は弓と槍とで倒している。

 

 さらに翌年の備中高松城の水攻めでは、敵の支城・冠山城(かんむりやまじょう)を攻めあぐむ味方の宇喜多勢を尻目に清正は、裏門から城内に入り込み、「羽柴筑前が家臣・加藤虎之助清正が一番乗りだ!」と大音声を挙げた。これがきっかけになって冠山城は落城した。

 

 そして本能寺の変があり、明智光秀との決戦・山崎合戦でも清正は、明智勢の勇士・近藤半助を一騎打ちで討ち取った。度重なる武功に、秀吉は大喜びして自筆の感状と、当座の褒美として脇差を与えた。そして、時間は賤ヶ岳合戦に移行する。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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