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粗暴であった福島正則は、なぜ秀吉の子飼いナンバー1になれたのか? 〜福島左衛門大夫正則〜

新解釈! 賤ケ岳七本槍列伝〜加藤清正、福島正則から片桐且元まで、秀吉をささえた勇士たちの実像〜 第2回

2歳時にはすでに秀吉から「将来大物になる」と目を付けられる

秀吉の従兄弟であったため、幼少から仕えた正則は、加藤清正とともに秀吉の子飼い中の子飼いであった。初陣は播磨三木城攻めで、明智光秀と天下の雌雄を決した山崎の戦いでも活躍したと伝わる。 イラスト/さとうただし

 福島正則(ふくしままさのり)は、永禄4年(1561)尾張海東郡二ツ寺村(清洲)に桶屋大工・市兵衛の子として生まれた。太閤秀吉(木下藤吉郎)の父・弥右衛門の妹が正則の母であったから、正則は秀吉の従弟になる。幼名を市松。福島姓は後に正則が養子に出された福島家から名乗った。

 

 その幼年時代は、普通以上のワンパクであり、多くのエピソードに彩られている。中でも、「藤吉郎」であった足軽時代の秀吉が、父の妹が嫁に行った桶屋を覗くと、2歳ばかりの男児が腰を太い縄でくくられて石臼の先に結び付けられていた。驚いたことにその幼児が、平気で石臼を引きずって歩いたのを見た。秀吉は「こいつは将来大物になる」と目を付け、以来可愛がるようになった。

 

 7歳の時には、年上の悪ガキと喧嘩をし、抱え上げると地上に叩き落として殴る蹴るを繰り返し、半死半生の目に遭わせた。

 

 この頃には、織田家で出世した秀吉が墨俣(すのまた)に築城して城将になっていた。そこで、市松を秀吉に預けた。その後、市松は秀吉の軍師・竹中半兵衛の弟子になって槍術・兵学などを学んだという。市松は、こうして秀吉の近習となった(諸説・別説あり)。

 

 もっとも秀吉自身が足軽出身であり、頼もしい一族や有力な家臣団などはない。自前で揃えていくより他はなく、市松のような人材は欲しい人材ともいえた。その意味からも、市松は「虎之助」と呼ばれた幼少時代の加藤清正と並んで「子飼い」の家臣であった。

 

 市松の初陣は天正7年(1579)7月。秀吉が伯耆(ほうき)・羽衣石城(うえしじょう)の南条元続(なんじょうもとつぐ)を攻めた戦いである。この初陣で市松は、南条家で勇猛を謳われた小峰左門という武将を討ち取る初手柄を挙げた。喜んだ秀吉から市松は100石を与えられた。

 

 それから市松は、秀吉の中国攻めに従い多くの武功を挙げた。何度か加増されるうちに、千石取りの武将になった。天正10年(1682)6月「本能寺の変」が勃発し、秀吉の主君・織田信長が家臣の明智光秀に討たれた。折から毛利勢との中国戦線を戦っていた秀吉は奇跡といわれる「中国大返し」を実現し、山崎合戦で光秀を破った。小山崎合戦で市松は、「笹の才蔵」として武名を知られる明智勢の可児才蔵(かにさいぞう)を生け捕りにして、自らの家臣にしてしまった。

 

 「あの可児才蔵を家臣にできたのは、市松だからこそであろう」と、秀吉も市松の猛者ぶりに驚いたという。才蔵は、合戦で討ち取った首が多すぎて持てず、自分が討ち取った証拠にその首には笹の葉を刺し込んでおいたことから「笹の才蔵」というあだ名で呼ばれるようになったというのだ。

 

 そして、いよいよ秀吉とその軍団は、柴田勝家との最終決戦ともいうべき「賤ヶ岳合戦」に雪崩れ込む。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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