福島正則は、なぜ賤ヶ岳の一番槍になれたのか? 〜福島左衛門大夫正則〜【後編】
新解釈! 賤ケ岳七本槍列伝〜加藤清正、福島正則から片桐且元まで、秀吉をささえた勇士たちの実像〜 第3回
羽柴秀吉と柴田勝家が、織田信長亡き後の勢力を巡って戦った「賤ヶ岳の戦い」。秀吉の臣下のひとりであった福島正則は、この戦いを節目に有力大名として大きく飛躍していく。
柴田軍の勇士・拝郷五左衛門久盈を倒し勝ち名乗りを上げる

賤ヶ岳七本槍は秀吉家臣団の勇猛さをアピールする恰好の広告塔であった。中でも一番槍の功績が認められた正則は5000石の加増。他の七本槍のメンバーがいずれも3000石加増なので、まさに破格の評価であった。イラスト/さとうただし
天正11年(1583)4月21日、まだ暗いうちから秀吉陣営は敵陣(柴田勝家軍・前線の指揮は勝家の甥・佐久間盛政)の包囲を仕掛けていた。これに対して盛政は包囲されたら全滅、という危機を感じていた。盛政は、すかさず全軍8千に退却を告げると深夜にもかかわらず動いた。
柴田陣営は喧噪を極めた。その喧噪は、秀吉の陣営にも届く。秀吉は、敵が動き始めた瞬間を狙って自ら本隊を率いて攻撃を開始する考えを軍団に伝えた。秀吉は、木之本の本陣から西に向かって山道を上り始めた。急坂を息を切らしながら後に続く正則たちであった。やがて蜂が峰に着くと秀吉は「そのまま賤ヶ岳(しずがたけ)まで一気に駆け上がれ」と命じた。正則ら近習・馬廻(うままわり)衆が賤ヶ岳の頂上に立ったのは夜半過ぎであり、三日月が槍の穂を照らしている。
「見よ、柴田勢の松明(たいまつ)が北に向けて動く。権現山(ごんげんやま)に向かっているのだ」という秀吉に、正則は、あれが敵勢の主力だな、と思った。
柴田勢を指揮する盛政は、撤退成功に気をよくしていた。弟の佐久間三左衛門が指揮する殿軍(しんがり)さえ、うまく収容できれば反転攻勢して秀吉軍に勝てる、と考えていた。そして、夜が明けた。
21日卯の刻(午前6時)、朝日が昇りきった直後のことだった。「皆、手柄を立てよ!」と秀吉が声を張り上げた。正則は緊張した。隣には、僚友の加藤虎之助(清正)が槍の柄を握り締めて唇を噛んでいた。
盛政が殿軍を収容しようと「権現坂を一気に登り切れ!」と言った瞬間であった。秀吉が「掛かれ!」と大声で命じた。秀吉は賤ヶ岳の山頂で、この瞬間(殿軍の収容)を狙っていた。法螺貝(ほらがい)が鳴り、陣太鼓が轟音を立てる。長く延びた殿軍の軍列に山上から正則らは襲い掛かった。
正則はこの時、洗革を黒糸で縅(おど)した小具足に、熊毛を植えた頭成(ずなり)の兜を被り、紙の切裂縞の旗指物を折からの風に翻して、真っ直ぐに出した槍を構えて敵軍に躍り込んだ。すると、山の尾根を下った場所に柴田軍でも名を知られた勇士・拝郷五左衛門久盈(ひさみつ)が戦い疲れて一息入れているところに出くわした。
正則は、自らを名乗って槍を構えると、拝郷も名乗ったが、槍の石突き部分で払い除けようとした。正則を見くびっていたのだ。そこで拝郷の懐に飛び込むように素早く近づいた正則は、その槍を叩き落として組み討ちとなった。何度か横転を繰り返すうちに、正則は脇差しを抜き払って鎧の隙間に刺した。怯んだ拝郷に乗り掛かり命を奪うと、首を切り落とした。高らかに勝ち名乗りを上げる正則の声が、秀吉の耳に飛び込んできた。これが、正則のみは、7本槍の中でも別格の5千石の加増という褒美に繋がった。正則はこの時、25歳であった。翌年の天正12年には「福島市松」から「福島正則」を名乗り、従5位下・左衛門尉に叙任される。さらに天正15年(1587)には、伊予国31万石の大名となる。
そして、13年後の関ヶ原合戦後には家康の東軍に属して戦い、安芸・備後49万8千200石の大大名になる。