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浅井家に縁のあった片桐且元は、なぜ豊臣家に尽くし続けたのか? 〜片桐東市正且元〜

新解釈! 賤ケ岳七本槍列伝〜加藤清正、福島正則から片桐且元まで、秀吉をささえた勇士たちの実像〜 第4回

秀頼の傅役に命じられた名誉を誇りに “秀頼様をお守りする”ことに専念

秀吉の子飼い家臣団の中では、近江出身に属する且元。同郷である石田三成もほぼ同時期に秀吉に仕えたと伝わる・イラスト/さとうただし

 秀吉の家臣団は、大別すると、弟の小一郎(秀長)や妻・おねの伯父・杉原家次など一族衆があり、次いで池田輝政(てるまさ)・加藤清正・福島正則・前田利家などの尾張衆があって、他に仙石秀久や竹中半兵衛(重治)など美濃出身の武将たち、さらには石田三成や蒲生氏郷(がもううじさと)など近江出身の武将たちで構成されていた。こうした家臣たちとは別に、大谷吉継(よしつぐ)・黒田官兵衛(孝高)・小西行長(ゆきなが)など近畿周辺地域の出身者たちがいる。

 

 賤ヶ岳(しずがたけ)7本槍の一人に数えられる片桐且元(かつもと。幼名・助作)は、このうち近江出身である。且元の父・直貞は、秀吉が織田信長の命令で滅ぼした浅井長政(信長の妹・お市の方の夫。信長の義弟)に仕えたが、姉川合戦の後に秀吉に下っていたために浅井家の滅亡と運命を共にしなくてすんだ。そうした縁で、秀吉が浅井長政を滅ぼしたあと、長浜城を築城した際に16歳で小姓となった。譜代家臣のない秀吉には、一人でも多くの子飼いを欲しかったことから、助作という頃の且元も拾われて家臣団に加わったのであった。

 

 秀吉の中国遠征では、備中高松城攻撃にも参戦して、支城の1つ・鎌倉峯砦を落とすなどの武功を立てている。賤ヶ岳合戦では、馬廻衆の一員として戦い、一説には福島正則が討ち取ったという柴田勝家の勇将・拝郷久盈(ひさみつ)を討ち取る手柄を立てたともいわれる。多分に、情報が交錯して一人の敵を正則、且元の二人のどちらかが討ち取ったことになったのかもしれない。

 

 いずれにしても且元もこの賤ヶ岳合戦では、秀吉が気に入るだけの手柄を立てたのであろう。実は「7本槍」の中でも且元は年齢が上で、28歳というのは、31歳の脇坂安治に次ぐ年嵩であった。合戦後に、秀吉から武功に対して感状と知行3千石を与えられた。その後且元は、秀吉の合戦には直属部隊として配置され、後備えや脇備えという秀吉を守る立場にあった。天正13年(1585)7月、秀吉の関白就任に従って且元も従5位下・東市正(いちのかみ)に叙任される。

 

 しかも文禄4年(1595)8月には、賤ヶ岳合戦の追賞(恩賞の追加)として5千800石を与えられ、1万石の大名に序した。秀吉に跡継ぎ・秀頼(ひでより)が誕生すると、且元はその傅役(もりやく)を命じられた。摂津・茨城城1万2千石と家禄はあまり多くはないが、豊臣家の御曹子を教育・護衛するという名誉は且元にとってこの上ない喜びであった。

 

 秀吉没後、徳川家康が天下人の座を狙い、それに反発した石田三成が挙兵し、関ヶ原合戦という「天下分け目の戦い」があったが、43歳になっていた且元は東西の勢力のどちらにも属さずに「秀頼様をお守りする」というその一事のみに専念して動くことはなかった。その後、家康から「秀頼の豊臣家家老」を命じられ、大和竜田1万8千石を加増されて3万石になった。結果として、大阪冬の陣・夏の陣を迎え、豊臣一族が滅びる中で且元も自刃して果てた。62歳であった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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