曹操を敗北寸前まで追いつめた馬超、主君を窮地から救った許褚。一騎討ち伝説も生まれた二大猛将、「謎」だらけの晩年とは?
ここからはじめる! 三国志入門 第125回

馬超の奇襲を受け、曹操をかばいながら逃がす許褚
前編/「三国志における最強の軍略家「曹操」が赤壁以上の“命の危機”に直面!? 馬超に大苦戦した潼関の戦いとは?」の続き
生涯勝率9割近くを誇る軍略家・兵法家の曹操が、思わぬ苦境に立たされた。潼関の戦い(どうかんのたたかい/211年)。韓遂・馬超が率いる涼州軍閥10万の遠征軍と、西の玄関口・潼関周辺をめぐる戦いである。
曹操は少数精鋭での迅速な行動を得手とした。しかし、その行動を読まれ、猛将・馬超に奇襲される。敵中に孤立し、絶体絶命となってしまった。
■最強のロイヤル・ガードが曹操の窮地を救う
馬超軍が放つ矢が降り注ぐなか、次々と河のなかへ倒れていく兵。曹操は落ち着いて督戦していたというが、内心は焦っていただろう。それを救ったのが護衛の許褚(きょちょ)であった。許褚は曹操を舟に載せると、左手で馬の鞍をタテにして矢を防ぎ、右手で舟を漕いでこの窮地を脱した。
あとで曹操は大笑いして「今日はあやうく小賊にしてやられるところだった」と強がりを言ったとか。3年前の赤壁の敗戦では「周瑜にしてやられた」と、言い放ったばかりだった。逞しいというべきか、懲りない男というべきか。いっぽうで「馬(ば)のせがれがいる限り、わしには葬られるべき土地もない」と苦々しい言葉を残したとの逸話も伝わる(山陽公載記)。
結局、曹操軍が渡河に成功し、潼関の背後をつく体勢になった。こうなると馬超軍は西へ退くしかない。次々に拠点を築いて優位を確保する曹操軍。これに対し、馬超はふたたび奇襲をかけるが、今度は曹操が備えをして伏兵を置いており、失敗に終わる。
戦局不利とみた馬超・韓遂は曹操との和睦交渉をもちかける。しかし、交渉ごととなれば曹操が得手とするところ。この会談の席で馬超・韓遂はお互いに不信感を抱くようになり、曹操と親し気に会話した韓遂は味方から疑いをかけられ支持を失っていく。賈詡(かく)がしかけた「離間の計」である。
チームワークを乱された馬超・韓遂ら関中連合軍は士気が崩壊し、それ以後の戦いでは曹操軍に完敗。馬超と韓遂は長安周辺地域の支配を放棄し、涼州へと撤退した。曹操は関中と、さらに北方の安定を平定し、長安一帯に再び支配権を取り戻すことに成功したのである。
かくして潼関の戦いは数ヵ月で曹操の勝利に終わった。しかし、その損害はかなりのもので、死者数は数万に及んだという。総兵力は不明だが、仮に10万とすれば半数に近い犠牲が出たあたり、それだけ馬超の軍勢は精強だったといえるし、地形的にも厳しい戦闘条件だった。
曹操は戦後、「相手に勝てると思わせておいて油断させたのじゃ」と語るなど大戦果を誇った。しかし魏の記録は曹操を称揚する内容のため、どこまで実情に迫ったものかはわからない。実際には薄氷を踏むような戦いで命を落としていてもおかしくはなかった。その意味で、この一戦は曹操にとって「赤壁の戦い」以上の大ピンチだったといえるだろう。
■馬超、許褚。両猛将の謎めいた晩年とは・・・?
さて、そのいっぽう・・・曹操に肉薄するも取り逃がしてしまった馬超。潼関といえば、小説『三国志演義』では、許褚との壮絶な一騎討ち展開される。許褚がもろ肌ぬぎになって馬超と打ち合う名場面で知られるが、残念ながら史実にこの打ち合いの記録はない。
正史(馬超伝)によれば、戦後交渉の席で曹操と顔を合わせた馬超は、ひと思いに曹操を刺し殺す気でいたが、実行を思いとどまった。そばに許褚がいたからだ、と史書にはある。さらに正史によれば、馬超は若き日、閻行(えんこう=韓遂の義理の息子)と果し合いをするも矛で首を突かれて死にかけるという不名誉な逸話まである(『魏略』)。正史・馬超の武働きには、どうにもキレがない。
この3年後、馬超は戦局を好転できぬまま、劉備のもとへ奔る。以後、劉備軍の一員に名を連ね、左将軍に昇進。張飛と並ぶ厚遇を受けるが、戦場での華々しい活躍はないまま47歳で没する。鳴かず飛ばずで、結局のところ潼関の戦いと鳴り物入りでの入蜀が彼の全盛といえた。馬超は小説中で猛将化した人物の典型なのか、おかげで閻行は小説では存在を消されてしまった。
かたや、許褚のその後もエピソードに乏しい。曹操が存命中の9年間、戦場での働きについては記載が見当たらない。片手で牛の尾を掴んで引きずったり、曹操の寝所に忍び込んだ賊を打ち殺したり、華々しい前半生の活躍に比べ寂しい。曹操の没後は曹丕の護衛も務めたが、目立つほどの活躍がなかったようだ。猛将も寄る年波には勝てなかったか。
性格は無口で、曹仁からの歓談の誘いにも応じずに職務をこなしたという許褚は、周りとうまくやるタイプの人ではなかった。もちろん厚遇は受けているのだが、没後の評価は今ひとつだったのか。最大といえる謎は曹操の廟に合祀された功臣25人のなかに、許褚の名前がないことだ。
馬超の晩年も不自然なほど寂しいが、許褚も同様である。裴松之(はいしょうし)が「典韋(てんい)が祀られているのに、許褚が合祀されなかったのは理解しがたい」と述べているように、その晩年や待遇はまったく謎めいている。