【 三国志の “暴君” の強さとは? 】猛将の呂布や張遼、異民族を従えた董卓の軍勢
ここからはじめる! 三国志入門 第126回

董卓との関わりも大きい人物たちの出身地マップ 地図/ミヤイン
最近、董卓(とうたく)が話題である。董卓を主役にした漫画『三国志凶漢伝 暴喰の董卓』(作/杉山惇氏、監修/渡邉義浩)が好評連載中で、先ごろ第1巻が発売されたばかり。11月9日には、その発売を祝って「董卓フェス」というイベントも東京渋谷で開催された。
中国史上には「暴君」が何人も出てくる。「酒池肉林」にふけった殷の紂王(ちゅうおう)、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)などの恐怖政治を行なった始皇帝などがその代表。日本でも大人気の『三国志』の時代――後漢末期の暴君として、必ず名の挙がるのが董卓である。
董卓の権力は一時絶頂に達し、大いに暴虐をふるったが、俗にいう「三日天下」で終わった。いや「三年天下」といったところか。それでも3年弱とはいえ、都に君臨したのは事実。では、その強さを支えたものとは何だったのか。
■出身地からもわかる、董卓自身と兵たちの強さ
正史『三国志』によると、董卓は中国西北部の涼州に生まれた。シルクロードの出入口にあたる辺境。騎馬民族である羌族(きょうぞく)との関わりが深い土地で、董卓はそのボスたち全員と交流していたという。
なにより董卓自身も強かった。生まれつき腕力があり、馬を巧みに操って馬上から左右両方に弓矢を射ることができた。後年、董卓は伍孚(ごふ)に襲撃されるも、みずから刺客を取り押さえて返り討ちにした。このような絶大な「武」を持っていたからこそ羌族たちに認められ、軍を形成しえたのであろう。
董卓は漢王朝の命令でたびたび反乱軍を討伐し、計百戦以上と『英雄記』にある。まさに百戦練磨。韓遂(かんすい)による反乱軍との戦いでは朝廷六軍のうち五軍まで敗北したとき、董卓の軍だけが軍勢を損ずることなく帰還したこともあった。戦いの功績で得た報酬は、すべて部下に分け与えたという記録もある。その軍勢には羌族の割合が相当数含まれ、董卓は彼らをよく手なずけていたのだろう。
この涼州に眼を向けると、董卓以外にも面白い人物が出ている。彼の配下だった李傕(りかく)、呂布との一騎討ちで名高い郭汜(かくし)をはじめ、反乱して董卓と戦った韓遂など、いかにもな「荒くれ者」の面々がいる。かと思えば、武威郡出身者には賈詡(かく)の名もある。後年、彼は張済(ちょうさい)の甥・張繡(ちょうしゅう)を補佐し、曹操を危機に陥らせたほどの策士だ。
董卓と同じ隴西郡(ろうせいぐん)で生まれた馬騰(ばとう)は、父親が羌族の娘と結婚し、その間に生まれたハーフであった。その息子の馬超にも、異民族の血が入っていたことになる。董卓伝にそのような描写はないが、彼にもそうした事情があっても不思議はなかろう。また近隣の天水郡の豪族の家に生まれたのが姜維(きょうい)。彼は後年、諸葛亮の北伐軍に呼応して名を轟かす。
■并州出身者の呂布や王允、張遼を取り込んだが
董卓は、その戦功により、涼州の東にある并州(へいしゅう)の牧にも任命されたことがあった。
并州の五原郡は現在のモンゴルと接する地で、董卓に仕えた呂布や李粛(りしゅく)の出身地。当時は匈奴(きょうど)という騎馬民族が進出し、彼らがたびたび猛威をふるう土地だった。その匈奴との抗争あるいは交流のなかで、呂布のような猛将が生まれ、董卓の軍中で武を発揮した。
また後年、勇将として名を馳せる張遼(ちょうりょう)も并州の生まれ。当初、彼が呂布とともに仕えたのが丁原(ていげん)という武官だった。丁原の生まれは不明ながら、その丁原が死ぬと、董卓に仕え、次に呂布へと主君が変わり、やがては曹操のもとで軍才と武勇を開花させた。ドラマチックな生涯である。
しかし董卓は結局、抱き込んだはずの并州出身者・王允(おういん)および、彼と同郷人の呂布に殺害される。小説『三国志演義』にある、貂蝉(ちょうせん)の色仕掛けは創作ながら、呂布とのいざこざが原因で不仲になった。それを王允が利用したことになろう。
次編に続く