関羽の武威が中華を震わす・・・劉備軍の「樊城攻め」は、なぜ大失敗に終わったのか?
ここからはじめる! 三国志入門 第121回

NHK「人形劇三国志」の関羽 川本喜八郎制作/© 川本プロダクション/撮影・田村実
■赤壁や官渡にならぶ重大合戦のひとつ
『三国志』のターニングポイントとなった戦いは様々にある。官渡、赤壁。その流れから繋がる樊城(はんじょう)の戦い。いわゆる関羽の北伐だ。曹操、劉備、孫権の三傑が存命中、領地を接する荊州を舞台に「三つ巴」の争いを繰り広げた唯一無二といえる大戦を振りかえろう。
ときは建安24年(219年)春。劉備は「定軍山の戦い」で曹操に勝利し、漢中を手中にした。漢の高祖・劉邦(りゅうほう)にならって「漢中王」を名乗り、改めて曹操政権(曹魏)打倒と漢の再興を誓ったのだ。荊州と益州(蜀)をも領した劉備の勢いは、まさに全盛を迎えていた。
劉備は漢中を魏延(ぎえん)に守らせて成都(蜀の都)へ帰還。荊州(南部の江陵)を守る関羽を前将軍に任じ、節鉞(せつえつ)を与えた。王からの軍事権を示す旗印、まさかりのことである(假節鉞)。これを受けた関羽は、同年7月、荊州北方の襄陽(じょうよう)・樊城へと出陣した。
このとき劉備から具体的な指令が下ったという記述は正史『三国志』に無い。ただ漢中・荊州の2方面から曹魏を攻めるという戦略は、かねてより示し合わされていたのだろう。漢中などの戦況を受け、この時期は曹魏に反乱を起こす者が続出し、北伐の機運は高まっていた。
■襄陽を守る、呂常とはどんな人物だったか
関羽は樊城を攻めたが、本来の目的は北荊州の首府であった襄陽であったとも考えられる。このとき樊城は曹仁(そうじん)や満寵(まんちょう)が、その南にある襄陽は、呂常(りょじょう)が守っていた。
襄陽という都市は、かつて劉表(りゅうひょう)が統治した巨城で、南方に山を有する。孫堅がこれを攻めるも偵察中に襲われて戦死しているように、襄陽単独でも落とすのは難儀だった。
曹操軍の守将について、曹仁はいうまでもない存在だが、呂常とはどういう人だろう。『三国志』には、ただ襄陽の守将とあるだけで他に出てこない。なんとも謎めいた人材だ。
『隸釋(れいしゃく)』という史料に、呂常と思われる人物の功を讃えた碑文の写しがあり、それによると決断力に優れ、この戦闘の混乱のなか造反も横行した局面で、よく兵を指導して反乱を未然に防いだ。献帝より横海(おうかい)将軍の号を与えられたという。当年59歳で、老練な名将といえたが、この2年後に没したらしいこともあり記録が少ない。
攻め手の不幸は、彼らのような名将が守備していることに加え、この樊城と襄陽の位置関係だ。川(漢水)を挟んで両対岸に位置し「襄樊」とも呼ばれる地域。関羽は兵を分散してそれぞれの包囲にかからねばならなかった。そして関羽がみずから攻めたのは北岸の樊城。先に出城的な役割の樊城を落とし、それから襄陽を取るという判断だろう。(2ページ目の地図参照)
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