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三国志【呉の皇帝】孫権は、卑弥呼がいる日本(倭国)を攻めようとしていた!?

ここからはじめる! 三国志入門 第117回

 

正史『三国志』には、魏・呉が、それぞれに倭国などの異民族と関わりを持っていたことをうかがわせる記述がある。地図/ミヤイン

 2世紀から3世紀の日本列島に、倭国の女王・卑弥呼(ひみこ)が住む邪馬台国(やまたいこく)があった。その最盛期は、ちょうど三国時代と重なる。卑弥呼は、曹操や劉備たち三国志の英雄とほぼ同時代を生きた人物だった。

 

 238~239年に卑弥呼は魏へ朝貢した。それ以後、魏と倭の間に使者が往来し、卑弥呼には「親魏倭王」の印綬や、「黄幢」(こうどう)という旗印が贈られ、魏の後ろ盾を得るなど、浅からぬつながりを持った。

 

 それらのことは、正史『三国志』の一部分(『魏志』の倭人条。俗に魏志倭人伝という)に書かれている。『三国志』は、3世紀の日本(倭)と、その文化風習および魏との交流をくわしく伝える唯一無二の文献史料でもあるのだ。

 

 だが、あの時代に海を隔てて倭と交流していた国は魏だけだったのか。『三国志』を読むと、実は呉も倭国と何らかの関係があったと匂わす記述が出てくる。『呉志』の呉主(孫権)伝や、陸遜伝などの記述をたどろう。

 

◼️帝位についた孫権、東の大海へ船を進ませる

 

 229年、孫権は帝位につき、呉の皇帝となった。魏と蜀に遅れること8年から9年後である。翌230年、孫権は将軍の衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)に武装兵1万を与え、東の海に船出させた。史書によると、皇帝になった孫権が真っ先に実行したことがこれだ。

 

 その目的は、夷州(いしゅう)、亶州(たんしゅう)の探索である。陸遜伝によれば、孫権はこれらを占領したいと考えていたという。結局、諸葛直たちは1年あまり海上をさまよったが、ついに亶州は発見できず、夷州から数千の住民をさらって帰ってきただけ。それと引き換えに疫病で八千人以上もの兵を失っていた。※陸遜伝・全琮伝には亶州ではなく珠崖(海南島)との表記がある。

 

 亶州を発見できなかったという罪で、孫権は両名を獄に入れて処刑した。が、ひどく後悔したという。出発前、陸遜(りくそん)と全琮(ぜんそう)が派兵に反対していたからだ。「いま遠絶の地を得る必要があるとは思えません。慣れない風土で兵は疫病にかかるし、そこの住民を連れ帰ってきたって役に立ちませんよ」と・・・。はたして、その通りの結果になった。

 

 そもそも、夷州・亶州とはどこだったのか。これには諸説あるが、夷州は台湾、亶州は倭(日本列島)の何処かとみられる。沖縄や種子島という説もあるが、ここでは亶州=日本の九州などにあったとする前提で進めたい。

 

◼️不老長生の妙薬と領土拡張で魏に対抗?

 

 孫権の目的は何だったのか。呉主伝で述べられるように「亶州は東の海中に在る」ことは、古くから知られていた。三国時代より400年ほど前、秦の始皇帝が方士の徐福(じょふく)を東へ遣わし、蓬莱(ほうらい)の神山と仙薬(不老長生の薬)を求めさせた。

 

 しかし、徐福は蓬莱の地にとどまったまま帰らず。そのことは『史記』に記され、広く知られていた。また後漢のはじめ、西暦57年には朝貢してきた倭王に対し、光武帝が「漢委奴國王」(かんのわのなこくおう)の金印を贈っていたことも史実としてあった。蓬莱(亶州)の民とおぼしき人が会稽(呉)の海岸に流れ着いたり、逆に呉の人民が亶州へ流れついたりすることが、幾度かあったという。

 

 呉帝となった孫権が「よし、おれが見つけてやろう」と思っても不思議はない。このとき孫権も齢49。ちょうど始皇帝の没年(50歳)を迎えるころで、寿命が気がかりだったろう。武装兵を派遣したのも、民が抵抗すれば武力行使も辞さぬ覚悟と将軍たちに言い含めたかもしれない。

 

 しかし計画は失敗。それでも孫権はへこたれない。「東がダメなら」と、北方の遼東を支配する公孫淵(こうそんえん)に使者を送り、服属を迫った。さらに、呂岱(りょたい)に命じて交州を平定させる。すると南のカンボジア・ベトナム地方の勢力(扶南・林邑 ・堂明)が、貢ぎ物を献上してきた。

 

 公孫淵の取り込みは失敗に終わるも、孫権は遼東・朝鮮半島へと勢力を拡大する姿勢を見せていた。並々ならぬ領土的野心は、やはり三国の一角を統べた主にふさわしい。亶州(倭国)の所在がハッキリしていたなら、さらに兵を遣って支配も望んだのではなかろうか。征服はせずとも朝貢を受ければ魏への対抗手段にもなったと思える。

 

 なお、呉の記録に「邪馬台国」や「卑弥呼」の存在が出てこないのは、その呼び方があくまで魏側の記録によるものだからだろう。呉の史官や孫権が、それらの存在をどこまで知りえたかは闇の中である。

 

次のページ◼️晩年、シャーマニズムに傾倒した孫権

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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