三国志【呉の皇帝】孫権は、卑弥呼がいる日本(倭国)を攻めようとしていた!?
ここからはじめる! 三国志入門 第117回

武漢(湖北省)にある孫権と孫策の像/撮影:上永哲矢
◼️晩年、シャーマニズムに傾倒した孫権
孫権は仏教に興味をもち、建業に仏教寺院を建てたりもしている。当時の中国には、まだ仏教は入ってきたばかり。仏教には、口伝でつたえる秘密の教義や儀礼を重んじる教えがある。呉があった浙江省で、のちに天台教や密教が発達するが、密教など特にその傾向が強い。
それと関連してか、晩年の孫権は王表(おうひょう)という怪しげな者を信奉していた。王表は「神」とされた存在で、雨や日照りなどの小さな出来事を予言し、それがよく当たった。紡績(ぼうせき)という巫女(みこ)が身の回りの世話をしていたという。
そんな王表を、孫権は城外に建てた屋敷に住まわせ、酒や食事まで運ばせるなど厚遇していた。道士の于吉(うきつ)を斬ったせいで祟られたと噂された、兄・孫策のことも頭にあったのだろうか。
王表は姿が見えない存在だったとも史書にある。つまり、滅多に人前には出てこなかった・・・。これらの記述、どことなく卑弥呼にも似ているように感じるが、考えすぎか。孫権は、亶州(倭)にいた鬼道(きどう)という秘密めいた術を使ったという女王の存在を知っていただろうか。
6世紀以降になるが、日本は仏教を国家鎮護に取り入れ、律令国家の形成とともに発展させていく。もしかすると、孫権が接した信仰もどこかに入り込んでいるのかもしれない。
◼️闇に消えたはずの、呉と倭のつながりの物証

安倉高塚古墳で発見された「呉の銅鏡」(赤烏七年鏡)/兵庫県立考古博物館所蔵・提供
ところで、現在の日本に呉とのつながりを思わせるものがあることをご存じだろうか。それは安倉高塚古墳(兵庫県宝塚市)の石室から出土した銅鏡。その鏡に「赤烏七年(244)」という呉の年号を示す銘がある。
卑弥呼が魏に遣使したのは魏の「景初3年」(239)で、ほぼ同時代。孫権の存命中でもあり、やはり呉も倭に存在した国々のどこか(邪馬台国ではない)と接触していたのかもしれない。
魏は、司馬一族の晋(西晋)にとって代わられ、西暦265年に滅びた。曹操の子・曹丕から5代、45年の短命国家だった。呉も孫権没後28年の280年に西晋に滅ぼされた。その西晋も313年に滅亡、邪馬台国も歴史書から姿を消す。いま少し、魏や呉が長く存続していればと、つい考えてしまう。
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