島原の乱で討死した板倉重昌の「焦燥」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第93回
■権力者の交代の中で抱えた「焦燥」

原城跡に立つ板倉重昌墓碑(長崎県南島原市南有馬町)。墓碑は寛政4年(1792)に発生した大災害である島原大変の際に一度失われたが、文政5年(1822)に城下で井戸を掘っていた際に発掘され、現在は原城跡に祀られている。
板倉重昌(いたくらしげまさ)は京都所司代(しょしだい)板倉勝重(かつしげ)の次男であり、島原の乱で討伐軍の指揮を取ったものの、強引な総攻撃を繰り返し、無残に討死したことで知られています。
しかし、重昌は若くして家康の近習として仕え、大久保忠隣(おおくぼただちか)の改易などで連絡役として活躍する人物でした。家康の死後は政治の中枢から外れ、大名の改易や転封に伴う城の受け渡し役を務めています。
久々に大きな役目を抜擢された島原の乱で、重昌が無謀な戦い方を選んだ背景には「焦燥」があったと思われます。
■「焦燥」とは?
「焦燥」とは辞書によると「いらいらすること。あせること。」とされています。
同じ意味合いで使われる「焦り」は「早くしなければならないと思っていらだつ。気をもむ。落ち着きを失う。気がせく」とあるように、落ち着きがなく冷静な判断が出来ていない状態を指します。
突然の出来事に驚いて「焦燥」に駆られる事もありますが、原因の多くは周囲の環境の変化によるものだと思います。例えば、同僚の出世や友人の成功など、自分との差が生まれるような状況になった場合です。
■板倉家の事績
板倉家は足利家の流れを組む渋川家を出自とし、下野国(しもつけのくに)足利郡板倉に土着したのが始まりとされていますが、詳細は不明です。曽祖父の頼重のころに三河に移り、深溝松平家に仕えたと言われています。
父勝重が家康に仕え重用されるようになり、徳川家の関東移封後、江戸町奉行として1000石を拝領しています。関ヶ原の戦い後に勝重は京都所司代に任命され6600石、1609年の加増で1万6600石を得て大名に列しています。
重昌が家康の近習として召し出された一方で、兄重宗は後に老中となる永井尚政(ながいなおまさ)や井上正就(いのうえまさなり)たちと共に秀忠(ひでただ)に近侍しました。重宗は駿府の家康と江戸の秀忠の連絡役を務めて信用を得ると、1620年に父から京都所司代を引き継ぎ、2万7000石を得て大名となります。そして幕府と朝廷間の諸問題の処理に対応し、1633年には1万2千石を加増され、5万石となっています。重昌は父の遺領の一部を引き継ぎ、大名となります。
■家康存命中と死後の重昌の活動
家康の存命中、重昌は近習出頭人として、度々上洛しています。
1614年、大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件で上洛し、京都五山に向かい吟味内容を持ち帰る役割を担っています。大坂冬の陣に出陣すると、和議の交渉役に加わっています。そのころには5230石の大身旗本となっていました。
しかし、1616年に家康が亡くなると、外交担当のような役目から外れていきます。
二代将軍秀忠の下で東福門院の入内への供奉や、亀山城の受け渡し役などを努めるようになります。大きな加増を得る機会がなかなか得られないまま、1624年には父の遺領の一部6610石を受け継いで、1万1800石の大名となります。その後は、加藤家の改易、それに伴う城の引き渡し役などを任されています。
三代将軍家光(いえみつ)の下でも同様に将軍上洛に供奉し、京極(きょうごく)家の転封に伴う松江城の引き渡し役を務めました。
1637年に島原の乱が起きると、九州諸藩による討伐軍の監督役として重昌が抜擢されます。
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