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「裏切り者」の名を受けて……魏を捨てた夏侯覇、決死の逃避行

ここからはじめる! 三国志入門 第119回

■吉川英治版では、張飛に一撃で斬られる!?

 

 魏の創始者・曹操のもとには、夏侯惇(かこうとん)、夏侯淵(かこうえん)という有能な将軍がいた。曹操は父親がもともと夏侯家の出身であったから、両将軍とは旗揚げ当初から行動をともにし、兄弟のように濃密な関係だった。

 

 その名将・夏侯淵の子が、夏侯覇(かこうは)である。武門のエリートとして英才教育を受けたであろう、いわば魏のサラブレッドの一人である。

 

 吉川英治版『三国志』の読者であれば「夏侯覇って、あの長坂橋で張飛にやられたザコ将?」と記憶されていよう。されど、これは『三国志演義』の旧式の版本を参照して書かれたもので、一般的な刊本にある「夏侯傑」(けつ)という別人(架空の武将)とみるのが正しい。

魏の元勲の子として生まれ、将来を嘱望された夏侯覇(右)/三国演義連環画より

■父・夏侯淵の急死で運命が一変

 

 ところが、彼の運命を大きく変える凶事が西暦219年に起きた。魏の重要拠点・漢中の定軍山(ていぐんさん)で父・夏侯淵が、劉備軍(蜀軍)の猛攻の前に討たれたのである。このとき、弟の夏侯栄(えい)も戦死した。

 

 蜀への報復を胸に刻み込んだであろう夏侯覇だが、その機はなかなか訪れなかった。以降、魏は蜀の諸葛亮による北伐に対し、守勢をとらざるをえなかった。そうしたなか、230年に好機が到来する。大司馬(だいしば=国防長官のような役職)・曹真の指揮のもと、魏軍は蜀への反撃に転じたのだ(子午の役)。

 

 夏侯覇は、その先鋒に抜擢されて勇躍、蜀へと攻め込んだ。しかし、魏軍は敗退した。蜀までの進軍ルートには山脈が横たわり、きわめて険阻(けんそ)で、魏軍は思うように進めない。加えて大雨に見舞われ、兵糧が腐敗するなど、悪条件が重なったことも敗因となった。夏侯覇は援軍に救われて辛くも退却できた。父の死から20年、思いを遂げられず不甲斐ない思いであったであろう。

 

■志を果たせぬまま、生命の危機に

 

 時が流れ、夏侯覇は「征蜀護軍」に昇進する。魏の上層部も夏侯覇の思いをよく分かっていたかのような将軍号と思わせる。しかし、情勢は風雲急を告げる。249年、司馬懿(しばい)のクーデターである。司馬一族は曹爽(そうそう)や何晏(かあん)といった曹一族の有力者を捕らえて誅殺した(高平陵の変)。当然、その追及の手は夏侯家にまで伸びてくる。

 

 当時、夏侯覇の上司は身内の夏侯玄(げん)であったが、その夏侯玄が、郭淮(かくわい)という新たな将軍と交代させられた。悪いことに、夏侯覇はその郭淮と不仲であったらしい。

 

 夏侯覇にも害が及ぶことは時間の問題。身の危険を感じた夏侯覇は、驚きの行動に出る。彼が選んだのは「蜀への亡命」であった。父の仇敵・蜀への、いわば投降。生き残るためには、他に道はなかった。家族も置き捨てての逃避行であった・・・。

 

次のページ■なぜ、亡命先の蜀で歓迎されたのか?

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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