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慶喜はなぜ徳川幕府に止めを刺したのか? ~ 15代将軍・徳川慶喜 ~


徳川幕府において「徳川家康」の次に知られているといっても過言ではなく、徳川幕府最後の将軍となった徳川慶喜。青年期には将来を嘱望され、文武にわたる才能に恵まれていた慶喜の生涯はいかなるものだったのか、ここで迫ってみたい。


 

実行力と才能を持った最後の将軍

水戸に生まれた慶喜は、水戸学の影響を受け尊王思想が強い。大政奉還や戊辰戦争での朝廷に対する弱腰の態度は、その思想的バックバーンにあった。イラスト/さとうただし

 慶喜(よしのぶ)は徳川御三家の一つ水戸・徳川斉昭の七男として天保8年(1837)9月に誕生した。母は、有栖川家から斉昭に嫁いできた正室・登美宮吉子(とみのみやよしこ)である。37人兄弟があったというから驚かされる。その中でも慶喜は英名を謳われ、11歳で御三卿一橋家の養子に入った。12代将軍・家慶は、自分の一字を諱(いみな)に与えるほど慶喜を大事にし、将来の将軍候補としたのだが、13代・家慶の就任から慶喜とその周辺には暗雲が立ち込める。14代将軍候補を巡り、幕閣には「一橋派(慶喜を推薦するグループ)」と「南紀派(紀州徳川・慶福を推すグループ)」が対立した。結果的に、慶福(家茂)が14代将軍となり、21歳で病死する。

 

 この前に幕政改革があり、慶喜は将軍後見職となり、大老と同様の権限を持つ政治総裁職には越前・松平慶永が就任し、京都守護職には会津・松平容保が着任した。その配下に新選組がある。

 

 慶喜は慶応2年(1866)12月、15代将軍となる。ここから「最後の将軍」慶喜にとって激動の幕末が開始された。

 

 慶喜にとってブレーンは二人が挙げられよう。陸軍奉行・海軍奉行・軍艦奉行・勘定奉行などを歴任する小栗上野介忠順(ただまさ)と勝安房守(海舟)である。慶喜は、この二人とは決して相性は良くなかったが、最後の将軍として二人が支えたことだけは確かであった。余談ながら、海舟に至っては明治になってから、慶喜の息子を自分の養子にするという離れ業まで見せるのである。

 

 慶喜は将軍として、フランスと提携し、6局構成の内閣組織(海軍・陸軍・外国事務・会計・内務・司法)を老中が担当する制度を採用し、小栗の提案による製鉄所・造船所などの近代的な工場建設に踏み切り、さらに軍監を買い入れ、陸軍はフランス式に編成替えするなど積極的な幕府改革に動いた。

 

 また、兵庫開港や江戸・大坂での外国人居留の許可など大胆な政策を実行した。長州の木戸孝允(桂小五郎)が「東照神君(家康)の再来」と評したほどの実力者と見なされた。薩摩の西郷隆盛は、慶喜の実行力と才能に驚き、武力討伐以外に幕府は倒せない、と腹を括った。 

 

 だが、慶喜の力ばかりでは幕府の限界は乗り越えられない。慶喜は慶応3年(1867)10月、朝廷に「大政奉還」を申し入れる。奇しくも同日、薩摩・長州に「倒幕の密勅」が出された。日本史は、ここから一気に倒幕の流れになる。11月、土佐・坂本龍馬が暗殺され、12月には「王政復古の大号令」が出され、翌年1月(慶応4年)には鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が新政府軍に破れ、戊辰戦争が開始される。この後、上野・彰義隊(しょうぎたい)戦争、奥羽列藩同盟、会津戦争、箱舘五稜郭戦争などを経て、戊辰戦争は終結する。

 

 将軍位を降りた慶喜は江戸を開城し、水戸に退去した。その後、駿河に移り住む。慶喜は助命された。その後の慶喜を見ると、明治31年(1898)3月、初めて皇居に参内し明治天皇・皇后に謁見した。35年(1902)6月には、爵位を授けられ、大正2年(1913)11月に死去。77歳という長命を生きた最後の将軍であった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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