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田沼時代に翻弄された無為な将軍 ~ 10代将軍・徳川家治 ~

徳川15代将軍列伝 〜 江戸幕府を開いた家康から、最後の将軍・慶喜まで〜 第11回 

従順で温厚な性格は将軍としては不向きだった

幼少時、祖父徳川吉宗の薫陶を受け文武に優れた才能をみせた家治だが、成長するに従い凡庸化。幕政を側用人の田沼意次に任せ切り、将軍としての主導的な役割を放棄した。
イラスト/さとうただし

 暗愚とされたものの、大御所に退いた家重に代わって10代将軍の座に就いたのはその長男・家治であった。宝暦10年(1760)のことである。この時期、幕府経済も悪化の一途を辿り、各地に激しい農民一揆が起きた。幕府は豪商に対して御用金の取り立てという命令を下し実行した。時代は宝暦から明和・安永と移ってゆくが、幕府経済の立て直しが図られるこの間に幕閣では田沼意次(たぬまおきつぐ)・水野忠友(みずのただとも)のコンビが台頭する。この時代を「田沼時代」と呼ぶ。

 

 田沼意次は13歳の時、8代将軍吉宗に御目見得(おめみえ)した。父・意行(もとゆき)は吉宗の将軍就任に伴って和歌山から上京して旗本になっていた。田沼は15歳で世嗣・家重の小姓になり、徐々に出世の道を歩く。家治の治世は宝暦10年から天明6年(1786)まで26年間も続くが、田沼は家治のブレーンとしても側近としても能力を示して幕府をリードしていく。その盟友が水野であった。

 

 田沼の出世は、側用人となった明和4年から2年後には老中格となり、さらに2年後には老中になり、幕閣として上り詰める。たかだか600石取りの小身(その以前は紀州藩士)から、5万石の大名にまで成り上がり幕府の最高権力を握った田沼は、歴史上「賄賂の権化」「忖度の家臣」と呼ばれ、ダーティなイメージを植え付けられてきた。だが、昇進には理由もあった。先ず、将軍家重・家治の信頼を得たことであり、次に権門と縁故を結んだこと(弟・意誠/おきのぶ が御三卿の一橋家家老となり、一橋家斉を将軍世嗣としたことや嫡男・意知/おきとも も若年寄となって父子2代で権勢を振るった)、第3に大奥と結託したことなど、派閥・閨閥をフルに利用したのが、田沼であったという。

 

 いずれにしても、田沼は情報収集能力にも長けており、あらゆる意味で「近代政治」の先駆者でもあった。しかし天明3年7月には浅間山が爆発し多数の死者が出手、天明の大飢饉も起きた。打ち壊しや一揆も頻発した。こうした中で、田沼は経済政策として「貸金会所設置令」「印旛沼・手沼開削」「金剛山金鉱採掘」などに着手した。

 

 特筆すべきは、御三卿の1つ、田安家の聡明な3男・定信を白河藩主として養子に追い出したことであろう。定信は次期将軍候補でもあったから、田沼はそうしたことも配慮に入れての「追放劇」であったかもしれない。

 

 こうした田沼政権を認めていた家治は、幼い頃から従順で温厚な性格であったという。だから許されるわけではないが、将軍として主体的な行動にも移れない。その治世中は田沼ら有力な政治家に委ねたまま、何もすることなく天明6年(1786)8月、50歳で病死した。この直後、田沼はほとんどクーデターに近い追放劇によって老中を罷免され、数回に渡って厳しい処分を受けることになる。そして、田沼罷免によってその諸施策は中止・撤回となった。

 

 その後、幕閣の中枢に座った白河藩主・松平定信が、11代将軍・家斉(いえなり)を補佐するのである。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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