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『正徳の治』といわれる時代をもたらした名君 ~ 6代将軍・徳川家宣 ~

徳川15代将軍列伝 〜 江戸幕府を開いた家康から、最後の将軍・慶慶まで〜 第7回 

間部詮房と新井白石の補佐により改革を進める

甲府藩領主として善政を施していた家宣は、常に次期将軍候補に上がる優秀な人物であった。しかし将軍になれたのは人生の晩年48歳。家宣に残された時間はあまりに短かった。イラスト/さとうただし

 歴代の徳川将軍には「名君」と呼ばれる人物もいるが、この6代将軍・家宣(いえのぶ)もそうした「名君」の一人とされる。本来ならば善政とされるはずの「生類憐れみの令」を、犬だけを大事にした将軍・綱吉による悪政とレッテルを貼られた「犬将軍」と重臣・柳沢吉保(よしやす)の「側近政治」の後に政権を担った家宣は、ある意味で「得な役回り」でもあった。

 

 家宣の将軍就任によって、側近政治を解体した、とする歴史作家などもあるが、実は新しい「側近政治」を形づくったのも家宣であった。新しい側近とは、側用人とした間部詮房(まなべ・あきふさ)と儒講・新井白石(あらい・はくせき)とのダブル幕政システムであった。

 

 家宣は、寛文2年(1662)4月、4代将軍・家綱の弟で甲府25万石の領主・徳川綱重の長子として生まれた。つまり3代将軍・家光には孫になり、5代将軍・綱吉には甥に当たる。幼名を虎松、元服して綱豊(つなとよ)といい、将軍になって家宣と改名した。

 

 ただ、家宣の母・長昌院(ちょうしょういん)は父の乳母だった女性の侍女という低い身分だったこともあって、生まれるとすぐに父・綱重の家老・新見正信(しんみ・まさのぶ)に引き取られ、そこで成長した。そのために「新見左近」と呼ばれた時期もあった。結局、父・綱豊の男児は家宣一人であったことから、後に正式に嫡男とされ元服。徳川綱重の継嗣(けいし)となった。延宝6年(1709)父が没して、家宣が甲府25万石に10万石を加増されて相続した。

 

 こうした事情から、4代・家綱が亡くなると、5代には館林領主であった綱吉(綱重の弟)が就任した。綱吉には男女ともに子どもはいたが早世し、結果として柳沢吉保などの働きがあって綱吉の後継者に決定し、綱吉没後に6代将軍の座に就いた。家宣は、48歳という年齢になっていた。

 

 家宣は、吉保にも従来通りの出仕を求めたが、吉保はこれを固辞して隠居した。代わって幕政を取り仕切ったのが、間部詮房と新井白石の二人であった。詮房は政治改革を目指し、白石は朝廷との関係融和などを画した。家宣はまた、「改革・武家諸法度」を公布している。他にも「公正迅速な裁判」「長崎貿易の改善」「恩赦令の発布」「金銀改良の着手」など家宣政権による一連の改革を歴史上「正徳の治」という。

 

 家宣は学問好きであり、経書・歴史・諸家百家の書物などに残らず精通しており師であった白石も「日本でも宋・清(中国)でもこれほど学問を好まれた君主の話は、古今に聞いたことがない」と(半分は忖度であろうが)感嘆したという。この他に、家宣の趣味は能楽であった。これは、元が能楽師の出身であった詮房の影響ともいわれる。良くも悪くも、家宣の治世は、詮房・白石の補佐による。

 

 家宣は、正徳2年(1712)10月、没した。51歳であった。家宣の治世は、僅か3年間という短さであった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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