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ブレーンに恵まれた少年将軍 ~ 4代将軍・徳川家綱 ~

徳川15代将軍列伝 〜 江戸幕府を開いた家康から、最後の将軍・慶喜まで〜 第5回 

大老・酒井忠清に政務を任せた“そうせい様”

家綱が幼年で将軍職に就けたと背景には、幕府が成立時の混乱期を乗り越え、制として安定期にあったことを示している。イラスト/さとうただし

 家綱は寛永18年(1641)8月、家光の長男として生まれた。家光は38歳という高齢で待望の嫡子を得たのだった。幼名は竹千代。4歳で「家綱」という名前を与えられ、五歳で元服した。後に、綱重・綱吉という男児が誕生するが、2人は最初から将軍後継レースからは外れていたのだった。

 

 家綱がまだ11歳の時、父親の家光が死去した。こうして、少年将軍の誕生となる。『大猷公記』は「保科正之直ちに西丸に登りて、世嗣(家綱)を輔く(補佐する)」とあるように、家綱の後見人は兄・家光から信頼を得、後見を託された家光の弟・正之であった。他に大老・井伊直孝や酒井忠勝が少年将軍を補佐し、老中として「智恵伊豆」といわれる松平信綱・阿部忠秋ら家光時代からの切れ者がブレーンとして幕閣を固めたのだった。

 

 保科正光には、こんな話がある。家光がお忍びで鷹狩りに出掛けた時、ある寺で昼食を摂った。寺ではサンマを焼いていた。そのうまそうな臭いに家光は所望すると出されたサンマに感動。江戸城に戻ってから同じサンマを食べたいと命じたが、まずいサンマしか出されない。「どこのサンマじゃ?」「魚河岸で仕入れた新鮮なものです」「いや、サンマは目黒に限る」という落語『目黒のサンマ』だが、この時、家光に寺の住職が話したのが、保科正之の存在。その母親の墓はこの寺にある、と聞かされて、後に保科正之こそ異母弟と分かり重用した。もっとも正之は生涯、家光から与えられた「松平」姓は名乗らなかったが。「未来永劫、会津松平藩は徳川宗家を最優先すべし」という遺訓を残したというのが「会津・松平藩物語」であり、これが幕末・戊辰戦争の白虎隊の悲劇に繋がる。

 

 家綱時代には、由井正雪(ゆいしょうせつ)事件・佐倉宗五郎の一揆・明暦の大火・伊達騒動などが起きたが、優秀な補佐たちが善処した。家綱時代の後半、武家諸法度を改正して「殉死」を禁止し、さらには大名の人質(江戸に正室や世嗣を置くなど)を廃止した。いずれも保科正之の献策による。また民政策としての玉川上水の貫通も家綱時代のことであった。だが、こうした優秀なブレーンたちも辞職・病死などで家綱の下を去ると幕閣の顔触れも変わる。

 

 寛文6年(1666)からは、後に「下馬将軍」とあだ名される大老・酒井忠清の独裁ともいえる時代になる。この時代になると家綱も政務への興味を失い、全てを忠清に任せどのようなことにも「左様せい」「そうせよ」と答えたから「そうせい様」とまで陰口されるようになっていく。家綱の興味は自ら筆を取るほどの絵画・囲碁・将棋・能舞いなど穏やかな静的なものばかりであった。しかも生まれつき病弱であったから、継嗣(けいし)にも恵まれなかった。家綱は延宝8年(1680)5月、40歳で病没する。その後継を巡って、ひと騒動が持ち上がることになる。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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