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守りに徹した2代目将軍 ~ 2代将軍・徳川秀忠 ~

徳川15代将軍列伝 〜 江戸幕府を開いた家康から、最後の将軍・慶喜まで〜 第3回 

大名の再配置、職制の制度化…側近政治からの脱却を図る

初代将軍である徳川家康と比較すると行動力、政治力で劣るが、実直な人柄は先代が築いた基盤を踏襲する2代目としては適任だった。イラスト/さとうただし

 秀忠(幼名・長丸)は天正7年(1579)に遠江・浜松城で家康の三男として誕生した。長兄は信康(この年の9月に自刃/じじん)、次兄が秀康(小牧長久手合戦の後に秀吉の養子になる)である。

 

 その後、秀忠は小田原の陣に際して人質として秀吉のもとに送られている。この時に、秀吉は「秀」の一字を与えて元服させている。「忠」は、松平(徳川)家に由緒ある一字であって「秀忠」を名乗った。秀忠は凡庸な将軍のように言われているが、実務には長けており、家臣団からの信頼も厚かった。文禄元年(1592)、秀吉の第1次朝鮮侵略(文禄の役)が始まると、家康は肥前・名護屋に出陣した。留守を預けられた秀忠は、江戸城の建設と町づくりに専心する。先頭に立って采配を振るい、江戸という城下町を創り上げたのは秀忠であった。

 

 慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦に、秀忠は3万8千の徳川本隊を率いて中仙道を西上したが、その途中で真田昌幸・信繁の隠(なま)る上田城を攻めた。しかし足止めを食らった結果大敗して、関ヶ原合戦には間に合わないという失態を演じてしまった。だが、家康の頭には徳川家を継承するのは秀忠、という確固たる決断があった。家康にしてみれば「創業は自分。しかし守成は秀忠こそ」という信頼があった筈である。

 

 慶長10年(1605)4月、家康は僅か2年で征夷大将軍を退き、秀忠に譲った。家康64歳、秀忠27歳であった。これによって将軍職は代々徳川家が継承する、という意思表示が行われ、残存していた豊臣家が再び「天下人の座」に就けるという希望を打ち砕いたのであった。だが、これは家康による「大御所政治」の始まりでもあった。

 

 家康は元和2年(1616)4月、75歳で病死する。秀忠は将軍として機敏に動く。天下の妨げになるとして弟・忠輝(ただてる)を改易(取り潰し)したのを始め、福島正則を筆頭に有力な外様大名23人を改易し、さらには徳川一門・譜代大名など16人を改易している。しかし、改易を増やしただけでなく、弟・頼宣(よりのぶ)を紀州・和歌山の大名にするなど新しく譜代大名を取り立て、大名の再配置にも熱心に取り組んだ。また、老職(老中)という幕府の職制を制度化し、いわゆる側近政治からの脱却も図った。

 

 家康は、徳川幕府が安定する頃には、日本国内の戦乱には終止符が打たれ、武勇一点張りのリーダーよりも、実務的で温厚な施策をしかも不断の勇気を持って実行できる将軍・秀忠に期待していたのであろう。

 

 秀忠の正室は、戦国武将・浅井長政の三女・お江(小督/おごう)であった。お江から生まれたのが嫡男・家光、二男・忠長であった。実は、秀忠は他に1人の男児をもうけている。お江には内緒の婚外子であったが、この男児が後に「副将軍」格となる高遠(後に会津)・保科正之である。

 

 秀忠は寛永9年(1632)1月、江戸城で病没。54歳であった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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