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忍者頭であり槍の達人 「鬼の半蔵」・服部正成

徳川家康・その一族と家臣団 第10回

現在の東京・『半蔵門』の名は服部半蔵正成の江戸城警備が由来

忍者のイメージは強い服部正成だが、家康が関わった多くの合戦で武功をあげている。イラスト/さとうただし

 伊賀・服部氏は平氏の出身とも渡来人の子孫ともいわれる。伊賀国・服部郷が本拠であり、百地三太夫(ももちさんだゆう)・藤林長門(ふじばやしながとの)とともに忍者御三家の一家でもあった。伊賀忍者は、甲賀忍者同様に鈴鹿山系という同じ土壌に生まれ、育った。恐らく戦国時代、徳川家康ほど忍者を利用し、あるいは忍者に助けられて生き抜いた戦国武将はいないであろう。

 

 その代表的存在が服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり)である。半蔵の父・石見守保長とその配下を、たまたま上洛していた家康の祖父・清康(きよやす)が三河・岡崎に連れ帰って家臣団に加えたことが服部氏と徳川家の縁の発端になった。この時に保長が清康から拝領した土地が「伊賀町」と名付けられ、そこに建てられた神社が、岡崎市伊賀町にある伊賀八幡宮である。

 

 服部半蔵正成の初陣は永禄5年(1526)2月、家康(当時は松平元康)の三河・上ノ郷城(宇土城)攻めの時。半蔵16歳、家康21歳であった。この時に、清康・広忠・家康と三代に渡って仕えてきた保長が、故郷から甲賀・多羅尾家から80人の応援を得て、城内に火の手を放って混乱させた。この時に半蔵は家康旗本の一員として得意の槍を振るって奮戦し手柄を立てた。半蔵は初陣の功名として家康から槍一筋を賜っている。

 

 以後、半蔵は「槍の半蔵」と異名を取る渡辺半蔵と並んで「鬼の半蔵」と呼ばれる槍の巧者になっていく。家康は、半蔵の「槍」よりも「忍び」に重きを置き、半蔵に伊賀者150人を預けてその棟梁とした。忍者・服部半蔵の誕生である。

 

 信玄亡き後の武田家の後嗣・勝頼(かつより)と、家康の妻・築山殿(つきやまどの)、嫡男・信康が内通したのを探知して家康に知らせたのも、半蔵は以下の忍びであった。

 

 天正10年(1582)6月、本能寺の変が起きた際、家康は上洛していた。堺・京都から三河に帰国する家康一行の「伊賀越え」で同行していた半蔵は甲賀・伊賀の忍者を護衛に加えて無事に帰国させた。その後も、半蔵は忍者集団を率いていくつもの合戦に参加。小田原の陣の後に関東に移封された家康は、家臣39人に1万石以上を与えて大名とするが、半蔵は8千石を与えられた。

 

 半蔵は江戸・麹町に屋敷を貰い(後に四谷に移る)、江戸城の裏門の警備を命じられた。これを「半蔵門」と呼ぶ。

 

 関ヶ原合戦の4年前の慶長元年(1596)、半蔵は麹町の屋敷で病死する。55歳であった。服部家を継いだ2代目の半蔵正就(まさなり)は人望がなく、配下の忍びたちから反感・不信感を持たれてストライキを起こされ失墜する。その後、忍者の統領・服部家は取り潰しになる。

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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