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57年間 槍一筋で戦場を駆け巡った「槍の半蔵」・渡辺守綱(もりつな)

徳川家康・その一族と家臣団 第9回

常に戦場の第一線に立ち続けた足軽頭

熱心な一向衆信者であった守綱は、三河一向一揆に加わり、家康に敵対。だが戦後、帰参が許され、以降は徳川家臣団を象徴する忠臣となる。イラスト/さとうただし

 渡辺半蔵守綱ほどその戦歴が明確な武士は、徳川家にはいない。というのも、守綱は17歳の初陣から57年間、合戦に臨みながら常に戦場の第一線に立ち続けた男であったからだ。それも「槍の半蔵」という異名を取りながら一軍を指揮する将ではなく、あくまでも1兵卒としての戦いを槍1本で続けたのであった。

 

 守綱は天文11年(1541)生まれ。家康と同年の生まれだが、59歳になる関ヶ原合戦まで「足軽頭」に過ぎない立場で戦場を往来したのだった。

 

 「鬼の半蔵」という異名は、指揮官としての名将に与えられた異名ではなく、常に第一戦に立った歴戦の勇士にこそ与えられた誉れでもあった。戦国時代も信長・秀吉の時代以降は鉄砲などの普及によって、個人的な武勇よりも集団での戦いに重きが置かれるようになっていた。そのような状況の変化の中で、頑なに「槍一筋」という個人的武技・個人的勇気を貫き通した「槍の半蔵」は、ある意味、徳川軍団の誇りであり、憧れでもあった。

 

 久能山や上野・日光などの東照宮には「徳川十六神将」といわれる画像がある。あるいは「徳川二十将図」(日光東照宮・狩野永納筆)もあるが、決して身分が高かったわけでもなく、一軍の将でもなかったのに、渡辺半蔵守綱は、そのどちらにも選ばれているところに、守綱の面目躍如があろう。

 

 守綱の渡辺家は代々、松平家に仕えてきている。守綱は、弘治3年(1557)16歳の時、今川義元の人質になっていた松平元康(家康)に仕えた。翌年の永禄元年、家康が尾張・石瀬で水野信元と戦った時に守綱は初陣を果たした。

 

 最初にその「槍」で敵将を討ち取ったのは、永禄4年(1561)8月、今川氏真(うじざね)に属していた長沢城を攻撃した際に城を守備する敵将・轟木武兵衛(とどろきぶへえ)が最初だった。これにより一躍名を知られるようになった。翌年、永禄5年9月には、御油(ごゆ)城が今川軍に攻められ、郊外の八幡での戦いで坂井忠次の先鋒が総崩れになったところを守綱が踏み止まり、得意の槍で敵を突き伏せ孤軍奮闘して徳川軍を逃がしたという。

 

 この戦いの勇姿・奮戦ぶりが家康にも徳川軍にも認められ、守綱は「槍の半蔵」という異名を取るようになった。その後のあらゆる戦いで守綱は、槍をしごいては戦い続けた。姉川合戦・三方ヶ原合戦なども守綱は、槍1本を武器に戦った。だが出世にはほど遠い。三方ヶ原合戦後にやっと100貫文(約300万円)の領地を与えられたに過ぎなかった。それでも守綱は不平不満を言わずに戦った。小田原の陣後に武蔵国比企郡で3千石を貰い、50人を預かる足軽頭になった。

 

 家康も守綱の功績を認め、慶長18年(1613)になって1万4千石を貰い、2年後の大坂夏の陣でも74歳の守綱は徳川義直(よしなお)の側近として槍を持って戦いに備えた。初陣から57年間、常に戦場の第一線に立ち続けた守綱は、家康の死の4年後、元和6年(1620)4月、病死した。享年79であった。 

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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