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徳川四天王 外交に長けた譜代最古参の忠臣・酒井忠次

徳川家康・その一族と家臣団 第6回

先陣として柴田勝家を敗走させた功績から家康の信頼を得る

 

家康の父・広忠の家臣でもあり、家康の側近としては最古参の武将だ。イラスト/さとうただし

 徳川家にとって累代譜代家臣を「三河譜代(草創期の松平家臣)」という。諸説はあるが、忠次(ただつぐ)の酒井家は家康の松平家と同祖といわれている。それだけに徳川家において酒井家は代々重職にあった。酒井家は「左衛門尉(さえもんのじょう)」系と「雅楽頭(うたのかみ)」系に分かれていて、徳川家の歴史を見ると、雅楽頭系は後に「下馬将軍」の異名を取るような忠清や忠勝・忠利(老中)・忠恭・忠寄・忠進(老中)などを輩出するが、忠次の左衛門尉系からは何故か出世する人間は出てこない。それでも「徳川四天王」の1人として誉め讃えられている。

 

 忠次は大永7年(1527)生まれ。家康よりも15歳の年長である。忠次は、家康の父・広忠に仕え、その後、家康が今川家の人質として駿府にあった間も、ずっと家康のお守り役として傍にいた。元服したばかりの家康(松平元康・15歳)が織田軍と戦った際に、忠次は岡崎城に攻めてきた敵将・柴田勝家を負傷させ、敗走させるのに先陣として奮闘した。これ以来、家康は出兵に当たっては忠次を必ず先陣(先駆け)させるのが先例となったという。この辺りに「四天王」面目躍如の忠次の姿が見える。

 

 永禄7年(1564)の三河・一向一揆を制圧した家康は、東三河の残存していた今川氏真(うじざね)の勢力を一掃し、忠次を吉田城主とした。そして東三河の松平庶家・諸氏を忠次の配下に置いて東三河のトップに据えた。今川氏の隣接地である東三河を預けられたのは、忠次どれほど家康から信頼されていたか、を示すものであろう。なお、この時家康は西三河を石川家(最初は家成、後に数正)に任せた。

 

 忠次の軍団は「白地に日の丸」の旗を靡かせて進んだ。元亀元年(1570)、姉川合戦でも忠次は徳川軍第1陣として1千の兵を率いて先陣を戦った。

 

 忠次の外交能力も高く、家康が越後・上杉謙信(当時は輝虎)と同盟する際の工作は全て忠次が関わっている。

 

 元亀3年12月の三方ヶ原合戦で武田信玄に惨敗した家康は、浜松城に逃げ帰ると城門を開いてしまった。追撃してきた武田軍は「何か策あり」として引き上げたが、その時に忠次は太鼓打ち鳴らし、城兵を鼓舞したという。後には「酒井の太鼓」として芝居などにもなる名場面である。

 

 これほどに家康の信頼が厚かった忠次だが家康の嫡男・信康切腹事件では、安土城に信長を訪問した時に信長から12ヶ条の詰問をされ、10ヶ条を認めてしまうという失態を演じた。これが信長の(難題を吹っかけるという)罠だったが、家康は信長の命令で信康と正室・築山殿(つきやまどの)を殺す結果になった。後のことだが、酒井家の新旧交代の際に嗣子(しし)・家次の家督が低いことを家康に訴えると、家康には「おまえも子は可愛いか」と皮肉られる。信康切腹に絡んでいた忠次へのしっぺ返しでもあった。隠居した忠次は、70年を生きて慶長元年(1596)京都で死去した。

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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