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凡庸ではなかった後継者 2代将軍・徳川秀忠

徳川家康・その一族と家臣団 第1回

家康に劣らない政治力で江戸幕府長期政権の礎を築く

 

武将として華のあるエピソードがない秀忠だが、生真面目な性格は家康が築いた幕府の基盤を継承するには、もっとも適任な人物であった。松平西福寺蔵

 古来から秤に掛けられてきた概念である。家(あるいは企業に置き換えてもいい)を興して一流に仕立てることと、その家(企業)を維持・継承することの、どちらが難しいか、という問い掛けである。

 

 徳川家康を「創業」の人、秀忠(ひでただ)を「守成」の人とする解釈も歴史の世界にはあった。その意味では、2代将軍・秀忠は立派に「守成」を成し遂げ、徳川幕府を磐石のものとして3代将軍・家光に引き渡したといえよう。

 

 秀忠は、家康の嫡男(ちゃくなん)・信康(のぶやす)が切腹して果てたその年、天正7年(1579)に生まれた。生母は家康に最も寵愛を受けた側室・西郷局(さいごうのつぼね)である。秀忠は、次兄・秀康(ひでやす)よりも5歳年少だったが、母親の出自などから将来の徳川家継承者と目されて育てられた。

 

 幼名を長丸(ちょうまる)といい、天正18年(1580)の小田原の陣(北条討伐戦)の前後2度に渡って秀吉の人質になっている。この時に秀吉の一字を貰って「秀忠」と名乗った。文禄4年(1595)、浅井長政(あざいながまさ)の二女・江与(えよ)と結婚。慶長2年(1597)には長女・千姫(せんひめ)が誕生する。秀吉が死去した時には20歳だった秀忠は、その2年後の関ヶ原合戦で徳川本隊3万を率いて中仙道(なかせんどう)を上ったが、途中の上田で真田昌幸(まさゆき)・信繁(のぶしげ)父子に手痛い足止めを食って合戦に間に合わなくなるという失態を演じた。合戦後、家康は秀康(ひでやす)・秀忠(ひでただ)・忠吉(ただよし)の兄弟のうち誰が跡継ぎに相応しいか家臣団に諮問したとされる。この結果、関ヶ原に遅れはしたが秀忠が後継者に決定した。

 

 慶長8年(1603)征夷大将軍に任官した家康は、秀忠を右近衛大将(うこんえのだいしょう)とし、2年後には将軍職を秀忠に譲った。それでも家康は大御所として実権は握り続けたが、秀忠は「元和偃武(げんなえんぶ)」といわれる「平和」の時代を作った。秀忠にはさしての「武功」はないものの政治力はあった。実は江戸を開発して町作りをしたのも秀忠であり、「老中制」という政治形態も秀忠(ブレーンはいたはずだが)の仕事である。派手さはないが、江戸幕府が長期政権となる基礎は秀忠によって固められたのであった。

 

 特に、家光に将軍位を譲った後には秀忠は「大御所」として君臨し、家康に劣らない政治力を発揮した。秀忠は、後世の史家が見たような「凡庸な将軍」ではなく、静かに「凄み」を効かせた立派な2代目であった。

 

 「軍事」から「行政」へ、という時代の変わり目を秀忠は見事に代替わりの役割を果たしたことになる。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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