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甲府で生まれ父・昌幸を通じて信玄兵法を会得した真田左衛門佐信繁(幸村)

孫子の旗 信玄を師匠とした武将列伝 第6回

数多の名将の戦法・兵法を研究、習得し、新たな真田兵法を生み出す

 

真田幸村の名が有名だが、本名は信繁。徳川家康を追い詰めた大坂夏の陣で武名は天下に響き渡り、「日本一の兵」と讃えられた。上田市立博物館蔵

 なぜ「幸村」という名前になったのか、不明とされるが、真田昌幸(まさゆき)の二男・源次郎は本来「信繁(のぶしげ)」である。信繁は永禄10年(1567)誕生とされるが、異説もある。昌幸が信玄の側近として出仕していた時代であり、信繁は兄・信幸(信之)と同様に甲府で生まれている。「信繁」という名前は、昌幸が最も敬愛していた武将・武田信繁(信玄の弟)の名前をそのまま貰った、といわれる。信繁は、昌幸の初陣でもあった第4回川中島合戦で討ち死にしているが、信玄が最も信頼した親族であり、知勇の将とされる。

 

 昌幸は武田家滅亡の際に、勝頼に対して上州への亡命を勧めたが、結果として勝頼は天目山(てんもくざん)で討ち死にしている。この時に当たって、信繁は兄・信之と二人で一族郎党を率いて、甲府から信州を経て上州への逃避行を無事に成功させた。

 

 その後、織田信長に従った昌幸だったが、本能寺の変が起き、信州・上州は甲斐同様に豊臣・徳川・北条による「天正壬午(てんしょうじんご)の戦い」に巻き込まれ、結果として秀吉に臣従(しんじゅう)することになる。家康との因縁は、この時の第1次上田合戦(神川合戦)から始まる。信繁・信幸兄弟は、こうした昌幸の戦いに参戦し、特に信繁は昌幸という存在を通して「信玄の兵略」を身に付けていった。いわば、師匠(昌幸)の師匠が「信玄」ということである。

 

 信繁が誕生して3年後が三方ヶ原合戦であり、その直後に信玄が、1年後に祖父・幸隆が病没している。だから信繁は、幸隆も信玄も知らずに育っている。だが「生(なま)信玄」は知らなくても、その信玄から謀略を含む軍略や武略(武田流兵法)を徹底的に仕込まれた昌幸の薫陶を、信繁も得たのだった。

 

 その後、信繁は昌幸の軍略のために上杉景勝(かげかつ)の人質となり上越・春日山城で、さらには秀吉の人質として京・大坂で暮らすことになる。しかし、景勝・秀吉ともに信繁を大事にした。信繁を奪われた景勝は激怒し、秀吉に「源次郎(信繁)をお返しくだされ」と、ねじ込んだともいう。

 

 信繁は、祖父・幸隆以来、真田家に伝わる伝統戦略ともいえる山岳戦法・少人数戦法に信玄の武田兵法、さらには景勝や直江兼続(かねつぐ)から知らされた上杉兵法、秀吉の戦い方などをその頭脳と身体に叩き込んで、新しい形の真田兵法を生み出したともいえよう。

 

 その軸になったのが、父から伝えられた「信玄流」の兵法・軍学であった。

 

 時代は移り、秀吉が病没すると、関ヶ原合戦が勃発する。西軍・石田三成に与した昌幸・信繁父子は、家康の武将となっていた兄・信幸を含む徳川軍と戦う。第2次上田合戦である。3万8千の大軍を率いる徳川秀忠(ひでただ)に対して真田勢は3千。十数倍の敵である。

 

 昌幸は得意の謀略を駆使して散々に徳川勢を打ち破り、信繁も神川に水を溜めておいて決壊させ、その混乱のタイミングを見て虚空蔵山からの伏兵で攻撃させ、味方の被害を少なくして城に引き上げるという見事な指揮能力を発揮した。

 

 さらに、兄・信幸には戸石(といし)城を攻めさせて、これを落城させるなどの手柄を与えている。この戦いで唯一、徳川軍が勝利したのは信幸の戸石城落城だけであった。これが、関ヶ原合戦後の昌幸・信繁の助命に繋がった。

 

 高野山・九度山(こうやさん・くどやま)に蟄居(ちっきょ)となった父子二人は閑(しずか)な日々を過ごし、11年後の慶長16年(1611)6月、昌幸は脳卒中で死亡。慶長19年(1614)11月の大坂冬の陣では、信繁が武田流築城による「真田丸」を築き、東軍を散々に悩ました。これも昌幸から教えられた信玄軍法によるものであった。

 

 慶長20年5月、夏の陣が開始。信繁は家康本陣に突撃して戦い、討ち死にする。49歳であったという。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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