農民出身ながら美貌と文武の才で知られた武将・高坂弾正忠昌信
孫子の旗 信玄を師匠とした武将列伝 第1回
「名将の下に弱卒(じゃくそつ)なし」を示した信玄子飼いのナンバー1

甲斐石和を本拠とする土豪の出身で、信玄の小姓として頭角を表した。不死身の武将と恐れられ、川中島合戦、三方ヶ原合戦などで数多くの戦いで武功をあげた。武田四天王のひとり。「紙本著色武田二十四将図」(部分)/山梨県立博物館蔵
武田信玄は、牢人(ろうにん)をよく使い、門閥・家柄などは問題ではなく、たとえ武士の出身ではなくても実力のある者を近臣として育て上げ、それぞれの力量によって足軽大将・侍大将などに抜擢した。信玄の人物育成の基本は「誠実に人を見ること」にあったといわれる。信玄は的確に人を見抜いたから、敵であった上杉謙信・織田信長・徳川家康についても高い評価をしている。人育て・人使いの名人・信玄を師匠とした武将たちを紹介したい。
高坂弾正忠昌信(こうさかだんじょうのちゅうまさのぶ)は、信玄に育て上げられた武将の中ではトップランナーともいえる存在である。武家の出身ではなく、甲州石和(こうしゅういさわ)の農家の出であった。武田家臣団きってのイケメンであり、最初はその美貌に信玄(当時は、晴信)が惚れ込んで、小姓(こしょう)にしたともいわれる。昌信は石和の豪農・郷士であった春日大隅(かすがおほすみ)の息子・源助として生まれた。信玄に仕えたのが天文11年(1542)5月。信玄21歳、源助16歳であった。近習(きんじゅ)として仕えた源助だが、後に示すように文武両道の才能があった。この時代の武士には珍しく読み書き算盤も出来たし、合戦にあっても華々しい戦いぶりを示した。
初陣は、仕えたばかりの天正(てんしょう)11年6月、信玄の信州攻略戦。使者としての参戦であった。その後も信玄によって武将として育て上げられた源助は、10年後の天文21年8月の信州安曇野(しんしゅうあづみの)・小岩岳城攻撃で、陣頭に立って城内に攻め入り城兵500余人を討ち取り落城させた最高の手柄を立てた。この功績によって、源助から春日弾正忠正忠(かすがだんじょうのちゅうまさただ)と改め、150騎の侍大将に抜擢されたのだった。
信玄の信任を一身に集めた「弾正」は、弘治(こうじ)2年(1556)8月の真田幸隆(さなだゆきたか)による村上義清(むらかみよしきよ)の属城・雨飾城(あまかざりじょう)攻略戦でも、真田隊を支援して奮戦。落城させるとそのまま雨飾城に留まった。弾正は3年間この城に留まり、北信濃の国人衆を把握して上杉謙信(当時は長尾景虎)と戦い、城を死守した。
永禄2年(1559)9月、信玄は海津城(長野市松城町)の全面改修を行い、北信濃の武田軍前線基地・兵站(へいたん)基地とした。弾正を城将とし、元来の海津城主であった「高坂」氏の名跡を継がせて「高坂弾正忠昌信」と改名させた。以来、高坂弾正、と呼ばれる。
大激戦とされた永禄4年(1561)9月の第4回川中島合戦を経て、やがて始まった信玄の西上野(群馬県)侵攻作戦にも参加。謙信との戦いは、信濃から上野に移って継続されていた。この西上野・箕輪城攻略を成し遂げた高坂弾正は、海津城主の守備を解かれて故郷・甲州に10年ぶりに戻った。この時の弾正は9千貫(一般的には100貫文は1千石・現在の価格ならば約700万円という換算値がある)という武田家臣団の最高の禄高(ろくだか)を与えられた。
元亀(げんき)3年(1572)10月、弾正は信玄直属の本隊として信玄の西上作戦に参陣した。三方ヶ原(みかたがはら)合戦に勝利し、野田城(新城市)を落としたものの、信玄は翌年(元亀4年)4月12日、信州伊那・駒場で病死する。
その後、弾正は再び海津城主に返り咲き、天正13年(1575)5月の長篠合戦で徳川・織田連合軍に敗れた勝頼軍を、収容した。朋輩の馬場信春・山県昌景(やまがたまさかげ)・真田信綱・土屋昌次・内藤昌秀らが討ち死にした中で、弾正はその後も生き続けて、勝頼や若い後輩を育て続けた。そして天正6年(1578)5月7日、弾正は甲府で52歳の生涯を閉じた。
なお、晩年の弾正は『甲陽軍鑑』を執筆したが、これは信玄の遺訓を、後世に残して武田家臣団・勝頼・武田親族衆に残すためであったといわれる。高坂弾正忠昌信こそ、信玄子飼いナンバー1として「名将の下に弱卒(じゃくそつ)なし」を示した武将であった。