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新兵器・鉄砲の弾丸除けを考案した武将・米倉丹後守重継(よねくら たんごのかみしげつぐ)

孫子の旗 信玄と武田軍団 第8回

初見の火縄銃に信州ならではのアイデアで対抗

弓の攻撃は木の板で防御可能だが、貫通力の高い火縄銃の弾には無力であった。そこで考案されたのが竹束で、竹をたばねて縄でしばった単純な構造ながら、戦場における火縄銃の弾の避けとしては十分に機能した。イラスト/成瀬京司

 日本に鉄砲が伝わったのは、天文12年(1543)とされる。九州・種子島に漂流したポルトガルの貿易商人2人が島主・種子島時堯(たねがしま ときたか)に2挺を献上し、時堯は家臣に命じて鉄砲を開発し、火薬の製造などにも当たらせた。これが「種子島」と呼ばれる国産鉄砲であった。

 

 だが、武田家にはこれより先の大永6年(1526)に西国の浪人・井上新左衛門が売り込んでいる。「鳥銃」(ちょうじゅう)と呼ばれ、鳥や獣を撃つ為の銃であった。しかし、発砲の祭に大きな音がして、誰もが恐れをなして本気で習得しなかったともいわれる。信玄(晴信)が6歳前後の頃とされる。

 

 信玄が鉄砲の威力を知ったのは、村上義清との戦いの最中であった。天文22年(1553)3月、義清方の信濃・刈谷原城(かりやはらじょう。東筑摩郡)を攻囲した。刈谷原城は鷹巣根山の頂上に築かれた山城。攻撃したのは武田の武将・米倉丹後守重継(よねくらたんごのかみしげつぐ)の部隊であった。容易く落とせると踏んだ米倉は、甘利藤蔵(あまり とうぞう。上田原合戦で討ち死にした甘利虎泰の後継者)・同僚の多田三八(ただ さんぱち)らと共に攻め立てた。ところが、城内からいきなり鉄砲が撃ち掛けられ、戦闘を進んでいた足軽が胸を撃ち抜かれた。

 

 これが武田軍が初めて経験した鉄砲を使った戦いであった。それまで合戦の常識は、石合戦・弓合戦に始まって、至近戦になって長柄槍・短槍が使われ、さらには刀も抜くことになる。具足の上に母衣(ほろ)を纏ったのは、矢を避けるためであったが、鉄砲玉では母衣も役に立たない。十分に引き付けておいて狙い定めた鉄砲は、攻撃する武田軍の多くが狙い撃ちされた。

 

 城を守る太田弥助は信濃の地侍であって、まさか鉄砲を入手していたとは、さすがの信玄も気付かなかった。信玄は、驚きを隠せなかった。信玄は、鉄砲を防ぐ手立てを米倉丹後守に命じた。

 

 このままでは、犠牲者が増える一方だからだ。米倉は、あれこれ方策を練ったが、良い考えが浮かばない。そうこうしている間にも城内からの鉄砲は威力を発揮している。同僚の多田は「竹の枯れ枝に火を付けて城内に投げ込み、火攻めにでもするか」と呟く。すると、その言葉に米倉が反応した。

 

 「そうか。竹だ。竹の束を集めて……」。信州は竹林が多い。特に北信濃の山々は地盤が軟弱であることから至る所で地滑り止めに竹を植えて竹林にしていた。米倉は、足軽たちを竹林に入れて根元から伐らせて人間の背丈ほどに先を揃えて手頃な竹束をいくつも作らせた。

 

「この竹束を3,4人隠れるほどの楯の形に仕上げて、鉄砲の的にさせてみよう」。3人の足軽が竹束を押し出す。銃声と共に鉄砲玉が飛んできたが、竹束に当たると弾け飛んだ。

 

 「よし!」。これを見て米倉は、大量に竹束の楯を作らせた。仕上がった楯を1列に並ばせると正面に並べ、将兵は固まってその陰に隠れまま四方から攻め上げた。この竹束の楯に、鉄砲は無力化した。間もなく城は落ち、米倉は城将・太田弥助を生け捕った。

 

 この後、米倉考案の竹束の楯は、鉄砲玉除けとして広範に使われるようになった。この楯は、次第に進化して車輪が取り付けられて1人で操作できるものから、大勢が1度に使用できるものまで数種類に増えた。武田軍団の面目躍如であり、信玄は米倉を7人の足軽大将・旗本5人衆に加えて厚遇した。

 

 米倉は、天正3年(1575)の長篠合戦で討ち死にするが、信玄の近臣中では指折りの出世頭とされる。忠誠心にもアイデアにも富んだ、異色の武田家臣であろう。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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