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安東愛季(あんどう ちかすえ)統一後、再度起きた湊合戦と“秋田”~『秋田家文書』『奥羽永慶軍記』『六郡郡邑記』を読み解く――「東北の戦国」こぼれ話

「歴史人」こぼれ話・第5回

蝦夷「安倍貞任」の後裔を称した安東氏

写真1)湊家を1570年に制圧した檜山家の安東愛季肖像。東北大学附属図書館蔵

 鎌倉時代から室町時代に掛けて出羽北部・秋田郡から津軽地方・下北半島、蝦夷地までを領したのは安東氏である。蝦夷「安倍貞任」(あべのさだとう)の後裔を称したが、その始祖は鎌倉時代の安藤孫五郎(あんどうまごごろう)であるという。

 

 その後、安東氏を名乗り、檜山郡に入った下国(檜山)・安東氏と秋田郡に入った湊(土崎)・安東氏の3系統に分かれて戦国大名を目指した。

 

 戦国時代、下国家の安東愛季(あんどうちかすえ)が三家を統合させた。そして湊家が代々「秋田城介」(あきたじょうのすけ)を称してきたことから名字を「秋田」とした。愛季の嫡男・実季(さねすえ)が、安東氏から秋田氏へと改称したのである。

 

 安東氏時代には、三戸を拠点とする南部氏と鹿角郡を巡って熾烈な争い(永禄合戦など)を展開し、勝利敗北を繰り返している。

 

 後に秋田氏(実季)は、力強い政策を実行して米・杉材・鉱産物などを商品化し、能代(野代)や湊の港湾を背景に繁栄を図った。

 

10倍の湊家の安東道季の軍を300挺の鉄砲で防戦した「湊合戦」

地図)安東(秋田)氏と北羽諸将の領土(1560年頃)地図/アトリエ・プラン

 天正17年(1589)には「湊合戦」といわれる秋田氏の命運に関わる大乱が勃発した。これは一族が2分して戦っただけではなく、周辺の中小豪族もいずれかに加わり、北羽では未曾有ともいわれる争乱になった。

 

 通説によれば、檜山家の当主・愛季が病没した後、継嗣の実季が13歳という若さであったことから、湊家の安東道季が周辺土豪や国人衆の援助を得て攻撃を仕掛けた。この湊勢は、檜山城に籠城する実季の約10倍という兵力であったという。

 

 道季と実季は、従兄弟同士という間柄であった。

 

 攻められた実季は、わずか300挺の鉄砲で防戦するだけの籠城戦を長期間に渡って堪えた。結果は実季側が勝利した。敗れた道季は南部に逃れ、翌年の天正18年、浅野長政を通じ豊臣秀吉に湊家の再興を願い出たが許されなかった。

 

(この争乱について『秋田家文書』『奥羽永慶軍記(おううえいけいぐんき)』『六郡郡邑記(ろくぐんぐんゆうき)』などが残されているが、不思議なことに3書ともに異なった事実、あるいは全く正反対の事実を書いているため、後世には合戦は2回行われているなど複雑に伝えられ、正確なところははっきりしていない。ただ歴史学者の間では、安東愛季による檜山・湊の安東両家の合体・統合に関わっての乱ではないか、とも見られている)

 

 秋田地方には有力な大名はいなかったが、小規模なだけに激しい対立抗争があって、様々な記述として残されたようである。

 

 なお、秋田地方に出羽の最上義光(もがみよしあき)が関与したともいわれるが、伊達政宗の関与は記されていない。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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