盗賊・悪党を従えて応仁の乱で活躍した「足軽大将」骨皮道賢とは?
「歴史人」こぼれ話・第4回
足軽大将・骨皮道賢とは何者か!?
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西軍に対陣した東軍細川勢。『絵入名将百史伝』(中央出版社)中村金水著/国立国会図書館蔵
応仁の乱で大活躍したのは足軽だった。足軽には「足軽く駆け回る者」という意味があり、文字通り戦場を駆け回り、放火や後方撹乱などを行った。そして、略奪行為も平気で行っていた。足軽を束ねていたのが足軽大将で、骨皮道賢(ほねかわどうけん)もその一人である。
道賢の出自は不明。生年すら明らかではない。名字の骨皮の所以は、①骨と皮ばかりの痩せた姿、②皮革業を営んでいた関係という2つの説がある。しかし、現時点ではどちらが正しいとは言えないようである。
道賢は東軍を率いた細川勝元、あるいは近江京極氏の配下にあった室町幕府侍所所司代の多賀高忠に従っていた。なお、名字が骨皮で、名の道賢は史料によって「道源」「道元」「道見」とも記す。いずれにしても、謎多き人物である。
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骨川道賢が大将に仰いだ東軍・細川勝元の肖像。『本朝百将伝』/国立国会図書館蔵
侍所所司代の被官で目付でありながら、盗賊を従える
道賢は侍所所司代の被官であり、目付という職にあったと言われている。目付とは、京中の盗賊などの動静を探る職務である。道賢は、京中および南山城に多くの者(盗賊や悪党)を従えていたという。
したがって、道賢は盗賊や悪党らと昵懇(じっこん)の関係にあり、彼らを足軽として編成していたのである。細川勝元はそうしたマネージメント能力に目を付け、呉服や太刀を与えて応仁の乱に動員したという。道賢が足軽大将に登用されたのは、その才覚が評価されたからだろう。
応仁2年(1468)3月、東軍に属した道賢は、京都下京の焼き討ち作戦に従い、稲荷山(京都市伏見区)に陣を取った。率いた手勢は、300余だったと言われている。しかし、戦いは東軍の不利なまま展開した。
道賢が率いる軍勢は、西軍に攻め込まれ窮地に陥った。道賢は女装して板輿(いたごし。屋根と左右両側を白木板で張り、前または前後に簾を掛けた輿)で逃亡しようとしたが、西軍の者に討ち取られて戦死したのである。
なお、その死は「昨日まで 稲荷廻し 道賢を 今日 骨皮と 成すぞかはゆき」と和歌で皮肉られたと言われている。
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老練な西軍・山名宗全も足軽大将の戦いに手を焼いた。『本朝百将伝』/国立国会図書館蔵