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京の都を焼き尽くし、戦国時代への扉を開いた「応仁の乱」はなぜ始まってしまったのか⁉

『応仁の乱』の歴史を学び直す

 日本史上、最大の乱世となった戦国時代への扉を開いた「応仁の乱」──。室町幕府の権勢に陰りが見え始め、周囲の権力者たちの勢力争いが拡大した末に、戦火は全国へと飛び火する。教科書で習ったこともあるはずのこの合戦は、実は複雑に人物関係が絡み合い、理解が難しい。ここでは、その発端について、あらためて分かりやすく解説していきたい。([『歴史人』電子版] 大人の歴史学び直しシリーズvol.3 「応仁の乱」より

 

大乱のはじまりとは? 凋落する将軍家の権威

京都・上御霊神社前に立つ「応仁の乱 勃発の地」の石碑。

 嘉吉(かきつ)元年(1441)6月24日、室町幕府の足利6代将軍・義教(よしのり・3代将軍・義満の三男)は有力守護大名の赤松満祐(みつすけ)によって謀殺された(「嘉吉の乱」)。義教が有力守護大名を抑えこもうと当主の交代などの介入を行ったことによって、彼ら大名衆の反発と警戒心を招いてしまったのだ。武家の頂点に立つ将軍があっさりと殺されてしまったことは、幕府の権威を失墜させた。7代・義勝(よしかつ)の早世後、8代・義政(よしまさ・義教の三男)は当初幕威の回復を志して幕府の人材を充実させ、各守護大名家の家督相続争いにも関与したが、周囲や有力守護大名の介入によって思うように進展しない状況が続いていた。

 

広がる各守護家の内紛が将軍後継者争いで爆発!

 

 そんな中で発生したのが、享徳(きょうとく)3年(1454)の畠山氏の内紛である。河内・紀伊・越中・山城の守護を兼ねる畠山家の主・持国(もちくに)は、前管領(かんれい)で、義政の将軍就任に大きく貢献したこともあり「畠山権勢無双」(「大乗院日記目録」)と称えられたほどの大物である。その持国には子が無く、弟の持富(もちとみ)を跡継ぎに指名していたのだが、その後実子の義就が生まれたために持富を廃嫡(はいちゃく)したのだ。それが家臣団内部の対立を生み、これを鎮めるために持国は持富死後にその子の政久(まさひさ)を後継者とする。しかし逆にいよいよ事態は混乱、義就支持派の遊佐(ゆさ)氏らと政久支持派の神保氏らとの武力衝突に発展してしまった。

 

 この衝突を、邪魔な畠山氏の勢力を削ぐ良い機会と捉えたのが、管領の細川勝元(ほそかわかつもと)と、かつて日本60余州のうち10カ国の守護を兼ね「六分ノ一殿」と敬された山名八家を復興させた実力者、山名宗全(やまなそうぜん)である。ふたりは政久派を支援し、畿内各所で合戦が繰り広げられたが、最終的に義政の介入で義就が勝利。だが、翌年政久が死去しても騒ぎはまだ収まらない。政久派は弟の政長を担いで戦い、挙句の果てに寛正元年(1460)義就が紀伊の根来寺(ねごろじ)と対立すると、義政は義就を更迭(こうてつ)し政長に畠山家家督を譲らせてしまう。その後河内・大和で勢力を養った義就は、5年後の寛正6年(1465)以降ふたたび兵を挙げて政長派と戦い続けた。

 

 一方、細川・畠山と同じ管領の家柄を誇る斯波(しば)氏にも内紛が発生している。越前・尾張・遠江守護職だった斯波義敏(よしとし)が、重臣筆頭で越前・遠江守護代をつとめる甲斐氏と対立し長禄元年(1457)に失脚し、新たな斯波家家督となっていた義廉(よしかど)に対し、翌年越前で両者の武力衝突が発生。そのあげく、長禄3年(1458)義敏は義政によって追放されていたのだ。その後、義敏の子・義寛(よしひろ)は、渋川氏から入った斯波義廉に当主の座を奪われ、文正元年(1466)義敏が一時当主に返り咲くものの、義廉は舅の山名宗全を後ろ盾にして反撃。ふたたび斯波家家督を手にしていた。同様に、近江の六角氏は高頼(たかより)と従兄の政堯(まさたか)が家督を争い、信濃でも小笠原清宗(きよむね)が又従弟の政秀と対立。特に加賀における富樫政親(とがしまさちか)と赤松政則(まさのり)による一国守護をめぐる争い、そして政親と弟の幸千代の対立は、のち大きな衝突に発展する。

 

 これらの対立の多くは、将軍・義政、そしてそれ以上にその側近で政所(まんどころ)執事の伊勢貞親(さだちか)に原因がある。将軍権力の上昇によって自身の地位を磐石にしたい貞親らは、守護大名家の内紛に積極的に干渉し「勘当に科なく、赦免に忠なし」(『応仁記』)と批判されるほど一貫性の無い対応に終始した。ある意味それは対立を煽って双方の体力を消耗させ、有力な大名を排除するための高等政略だったとも言えるのだが、義政とその側近たちが「公方(将軍)の威力、草に風を加うるが如きなり」(『蔭涼軒日録』)などと悦に入っているのとは逆に、結果的にかえって対立を激しくし長期化させていく。

 

 そのうえ、将軍家自体にも問題が発生していた。子の無い義政は弟の義視(よしみ)を後継者としていたのだが、寛正6年(1465)義政の実子・義尚(よしひさ)が誕生し、その将軍職襲位を願う日野富子(ひのとみこ・義尚生母、義政正室)が「如何にもしてこの若君を世に立てまいらせん」(『応仁記』)と願い、義視─義尚の関係が新たな台風の目となりつつあったのである。本来、広い直轄領を持たない室町幕府の将軍は、有力守護大名たちの〝パワーバランス〟の上でその権威を発揮するものだった。みずからそのバランスに手を出した義政が招いた混乱は、将軍後継を争う義視派と義尚派の対立によって、いよいよ収拾不能の状況へと発展拡大していくのだ。

 

監修・文/橋場日明

 

 

[『歴史人』電子版]
歴史人 大人の歴史学び直しシリーズvol.3 「応仁の乱」

4点の“時代別”勢力変遷地図とともに、長期にわたる合戦の変遷を分かりやすく解説。参戦する数多くの武将たちや合戦の場所、勝敗を、勢力地図を交えて紹介する。また、応仁の乱が日本史に与えた影響についても触れており、稀代の大乱を大局的に捉えることができる。

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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